「これからはいろんなダンスをやらないといけないんだ」と思った

 

パパイヤ鈴木氏との仕事も多数。
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「その放送を見た人から、SPEEDのファーストライブの振り付けオファーが来て、そこで全部の振り付けをして、ダンサーとしてステージにも出て、そのあと全国ツアーも一緒にまわりました。まだメンバーが小中学生のころ。タレントの振り付けをしたのはそれが初めてじゃないかなあ。

その仕事を見てくれた他のアーティストから声をかけてもらって、MAXとかDA-PUMPとか仕事が増えてきましたね、アーティストの振り付け師としては。だから、自分でプロモーションするわけじゃなくて、作った作品を見てもらって、仕事が回ってきてる感じですね」


――まさに実力勝負の世界で、多くの表現者から信頼を得てきたJUNさん。彼が初めてダンスに魅せられた瞬間は、どんなものだったのか。話はこの国にまだ『ストリートダンス』というものが根づいていなかったころにまで遡る。


「中学の後半くらいからディスコに遊びに行ったりはしてたんです、悪かったから(笑)。それで高校3年生くらいのときに見た『フラッシュダンス』(’83年公開)っていう映画の中で、ストリートパフォーマンスをやるシーンがあって、それ見たときにものすごい衝撃を受けて。「これをやりたい!」って思ったんだけど、やれる場所があるのかも知らないから、見よう見まねで練習したりして。

そのうちにホコ天(※原宿の歩行者天国)に、タケノコ族を筆頭にいろんなダンサーが集まるようになって。そのうち道にダンボールを敷いてブレイクダンスをやるようなチームが出てきて、メディアを通じてブレイクダンスが日本にも広まってきたんです。それでどうしてもブレイクダンスをやりたいと思って、たぶん日本で最初のプロのブレイクダンスチームだった『Funky Jam』っていうチームのレッスンを受けに新宿まで通って。最終的にチームのメンバーになったのが’89年ころですね。

そのころはブレイクダンス自体がものすごい流行ってたんですけど、その熱が徐々に冷めてきて。それで『ブレイクダンスだけやってても食べていけない。これからはいろんなダンスをやらないといけないんだ』と思って。そのころ地元の千葉から東京に出てきて、新宿と六本木のショーパブでダンサーとして働き始めたんです」