堤幸彦監督

 亡き恋人の部屋で鉢合わせをした3人の女性が繰り広げる抱腹絶倒のマウント合戦とその意外な結末を描いたコメディー『truth ~姦しき弔いの果て~』が公開中だ。監督は、『TRICK』や『SPEC』などの大ヒットシリーズを手掛け、最近は『ARASHI Anniversary Tour 5×20 FILM Record of Memories』でも知られる堤幸彦。本作がちょうど監督50作目に当たるが、企画の成り立ちは、これまでとだいぶ異なり、そのキャリアの中では異色作ともいえる。世界各地の映画祭で高評価を得た本作の舞台裏や作品に込めた思いを聞いた。

-「堤幸彦監督50作品目」とのことですが、どんなふうに捉えていますか。

 ある種の通過点というだけで、「50」という数字に意味はないです。なぜなら、50本のうち3分の1ぐらいはテレビドラマから派生したものだし、原作がないと成立しなかったものもたくさんある。オリジナルで作った映画は数本しかありませんから。エンタメでも社会派の問題作でも、「自分の問題意識を映画にする」ということをやらない限り、映画監督を名乗るべきじゃない、というドグマは僕の中にあるので。

-というと?

 1980年代に映画を始めた頃は、「沖縄の小島が独立して、村長が大統領になる」みたいなものを作ったこともあるんです。でも、当時のオウム事件とかぶって配給が降りるなどの問題があり、反省して“売れ線スタイル”みたいな形でずっとやってきました。それ故、今のような感じになっていますが、本来、映画監督の立ち位置としては、50本だろうが60本だろうが、世界に訴える作品を供給するようなことをやらないと駄目だろうなと。分かりやすい例としては、ポン・ジュノさんや(クリント・)イーストウッドさんのような方たちですね。

-なるほど。ただ今回は、プロデューサー兼出演者として参加している俳優の広山詞葉さん、福宮あやのさん、河野知美さんの3人が、コロナ禍で失われた表現の場を作り出すため、自ら企画を立ち上げ、文化庁の「文化芸術活動の継続支援事業」の助成を受けて製作されたインディーズ映画という側面もありますね。

 その点に関しては、このコロナ禍で本当に潮が引くように、仕事が延期や中止、あるいは分断という形になる中、「この原作でやらなきゃいけないんだよ」みたいなことではなく、「私たち、映画を作りたいんです」という本当のオリジンの気持ちに対して、何十年もやってきたノウハウを提供することができました。この不健康な状況の中で、そういう非常に健康的な取り組みができたことに関しては、意味があると思っています。僕は今66歳で、何作までいけるかは分からないけど、今後に向けたある種の“一里塚”にはなったんじゃないかなと。

-そもそも、最初に話がきたときは、監督の依頼ではなかったとか。

 逆ですね。広山さんと何かの折に電話で雑談していたとき、「こんなものを進めているんです」という話を聞き、「だったら、僕に撮らせてよ」と僕からオファーした形です。

-そこにはどんな思いが?

 去年の4月以降、コロナでいろんな仕事が中止、あるいは寸断する厳しい状況の中、実は僕、夏場に転んで大けがをし、手術して入院していたんです。そんな踏んだり蹴ったりの状態の上に、当面の大きな仕事もなく、本来ならスタッフの皆さんが衣食住に困らないものを保証していく責任があったのに、そのすべもない。そういう大変つらい状況の中でこの話を小耳に挟み、コロナで被害者意識にとらわれた人が多い中、「やっぱり女性は強いな」と思いつつ、その心意気が素晴らしいじゃないかと。

-その後、3人との打ち合わせを経て映画化に至ったわけですね。

 打ち合わせの席でキャラクターの住み分けと、「1人の男を愛した3人の女が葬式の日に出会う」というストーリーの出発点がなんとなく降ってきました。最初は「短編でいい」ということだったんだけど、「どうせなら、長尺にしてちゃんと上映できる形に」という話も僕の方からして。だから、その場で脚本家の三浦(有為子)さんに電話して、「こんなアイデアがあるので、付き合ってほしい」とお願いしました。三浦さんは昔、僕の劇団にいた方で、『2LDK』(02)や『明日の記憶』(05)の脚本も書き、僕が何を面白がるのか、よく分かっていますから。

-その結果、完成した映画は英国のノースイースト国際映画祭で最優秀長編コメディー賞を受賞するなど、各地の映画祭で高評価を受けました。製作期間2カ月、撮影2日間という低予算の映画ですが、そういう台所事情を感じさせない見事な会話劇となっています。撮影には苦労も多かったのでは?

 不思議なもので、僕はこれまで50本の映画を作る中で、「どうすれば予算を掛けずに面白くできるか」というノウハウを蓄積してきたんだな、としか言いようがないんですよね。撮影の前に立稽古みたいなことも3、4回やりましたが、始めから終わりまでどう動くか、ということもふっと湧いてきましたし。カット割りも割と複雑に見えますが、ぜいたくにも低予算でカメラを2台借りることができたので、2日で撮り切る計算は立ちました。

-コロナ禍という逆境の中、そういう作品が撮れたことは励みになったのでは?

 そうですね。視界がすっきり晴れたということは、あるんじゃないでしょうか。「映画を撮ってくれ」と言われると、どうしても責任を背負うので、多額の製作費を投下した分、少なくともその人たちに恥をかかせちゃいかんな、俳優にも恥をかかせちゃいかんな、という責任感が出てきます。それが、監督としての純粋性を曇らせるんです。でも今回は、「役者とプロデューサーと監督は、同じ方向を目指す戦友だ」という純粋性がすごくありました。今までの自分の映画作りをちょっと反省しました。

-そうすると、これから映画に対する向き合い方も変わってくると?

 より一層、旗幟(きし)鮮明になったというのはあります。まずは、同じ方向を目指す仲間が必要だなと。映画は1人では撮れませんから。だから、これからもいろんなチャンスを頂いていますが、一つでも二つでも「同じ船に乗ろうじゃないか」という気持ちで作っていかなきゃいけないなと。

-なるほど。

 それから、もともと、異業種から部外者的な気持ちで入ってきて映画を撮り始めたとき、恐る恐る作っていく中で遠慮しがちだった「社会に何をどう問うべきか」というテーマ性みたいなものを、この作品ではきれいにはめ込んでエンターテインメント化することができました。今後、オリジナルで作っていきたいと思っている作品でも、そういうことを堂々とやっていかないと、イーストウッドさんやポン・ジュノさんには近づけないな、と。1000キロぐらい先にいらっしゃって、遠過ぎる背中ですけど(笑)。

-そういう映画を作る機会を与えてくれた3人に贈る言葉は?

 「自由をくれて、ありがとう」みたいなことかな…。この映画を撮ることで、「くびき」みたいなものから解放された感じもありましたし。そう考えると、やっぱり僕からは「感謝」、「ありがとう」しかないですね。

(取材・文・写真/井上健一)