『ストラッター』(C)2012 Alison Anders and Kurt Voss

「ロックとはなんぞや?」みたいな語りを始めた中年ほどみっともないと自覚しつつ、でもやっぱり言わせてもらう。この映画はロックである。いや、この映画がロックだ。

その他の画像

この映画のロックとは「ブサイクな男がハンサムに彼女を取られる」であり、「でも恋敵がカッコよくて嫌いになれない」であり、「ヤケになって醜態を晒した」上に「身近にいたハートのあるブサイクな女の子にユラユラする」のである。どれもこれもみみっちくてみっともない。

「なに言ってんだ、ロックはもっとカッコいいよ! 革パン履いて、スタジアムで花火打ち上げてみんなで大合唱するんだよ!」というひととは残念ながら価値観が合わない。たぶん話も合わないと思うんで、もうこの文章を読むのはやめてチケット転売サイトでB'zのコンサートでも検索してはどうだろうか。無論、中にはB'zも『ストラッター』もイケるひとがいる可能性も否定はしませんが。

つまりこの映画が描いているのは、カリスマ性も才能もなく若くもないけどバイト生活がやめられない、そういうレベルのロックシーンの姿だ。しかも恐ろしいことに、明確にロックなんて時代遅れだと示唆している。ヒロインが映像作家志望で8ミリフィルムを好み、サイレント映画を上映するミニシアターでバイトしている時代錯誤と背中合わせなのだ。

80年代のジャームッシュを彷彿とさせる白黒映像もノスタルジーを感じさせる一因。面白いのは、そんな懐古の空気にくるまれながら、携帯電話にノンリニア編集にアンプシュミレーターとテクノロジーを隠す素振りが皆無なこと。ロックもフィルムも滅び行くかも知れないが、心奪われている自分たちがいる限り、したたかにたくましく、炎を絶やすことはない。そんな決意表明でもある。

そして後半の砂漠ツアーのくだりが素晴らしい。主人公たちはロックの聖地をめぐる気満々だが、ぶっちゃけ砂漠だからなんにもない。ライブシーンだって観客の姿すら映らない。サクセスとは程遠いけれど、彼らはロックの恩寵に包まれ、息を吹き返して町に帰る。やはりロックとは宗教なのだ。なんにもしてくれないけれど、いつだってそこにある。信者でよかった。そんな映画である。

『ストラッター』
公開中

文:村山 章