『凶悪』は、リリー・フランキーという演じ手に出逢うための映画である。
ジャーナリスト、山田孝之が死刑囚、ピエール瀧への接見を繰り返し、やがて真の悪が浮かび上がる。山田は真相を解明しようとする正義の衣を着た悪、瀧は共犯者=指示者を復讐という大義で自身と同じ地平に立たせようとする悪。両者ともにエゴとしての悪である。山田の芝居も、瀧の芝居も、表象するものに倣い、エゴとしての表現になっている。ところが、黒幕として登場するリリーは、まったく違う様相を呈している。
底なしの欲望、というクリシェがあるが、真の悪は本来の意味で底が抜けており、欲望さえもそこからは流れ出ていることが、リリーの相貌からは明らかになる。彼の声、所作、振る舞いなどを堆積していくと、この人物がもはや何も求めていないことがわかってくる。生きものとしての彼を見つめようとするならば行動原理のようなものはすべて抹消されており、あらゆるおこないは自動化された必然にしか思えなくなる。そう、彼は、この世界に埋め込まれた普遍的現象をトレースしているだけにすぎないのではないかと。
それは錯覚にすぎない。しかし演技とは、詰まるところ、いかに迫真に満ちた錯覚を、いかに気づきを呼び起こす錯覚を出現させられるかではないか。
たとえば台風や地震に、主体性はあるだろうか? それは、起こるべくして起きているだけではないだろうか。リリー・フランキーの表現には、利己的な瞬間がまったくない。台風や地震に主語が与えられることがないように、彼の表現には主語がない。彼はただ、自然の内部に横たわる沈黙だけをあらわしているように映る。
同時期に公開される『そして父になる』ではいわゆる善人という役どころを与えられてはいるが、やはり主語を存在させていない。わたしたちは晴天や月夜に手をあわせて感謝する。しかし自然は、そもそも真意なんて有していない。
自然はわたしたちにとって、もっとも巨大な他者だ。わたしたちは、この他者を永遠に理解することはできないし、永久に太刀打ちできない。リリー・フランキーは、忘れたつもりになっている現実に出逢わせる。
『凶悪』
公開中
文:相田冬二