映画を原作と比較して、ああだこうだ言う観客がいる。イメージと似ても似つかない、設定が違う、展開が気に入らない、ラストはこうじゃない……。小説や漫画を基にした映画は、古今東西、たくさん生まれてきた。映画の黎明期に始まり、いまだに作られている舞台中継映画は、ある意味その原形と言えるだろう。現実を再構成して提示するドキュメンタリーと呼ばれる作品群だって、現実が“原作”の映画である。不平不満の絶えない観客はここぞとばかりにこき下ろす。曰く、演劇のほんとうの魅力が映っていない、現実はこういうもんじゃない……。そんなにナマが好きなら、ナマだけを直視して生きていればいいのに。
映画は再生芸術である。しかし、小説や漫画や舞台や現実をトレースする道具ではない。
有名な小説や人気のある漫画は映画化される。だがそれは“きっかけ”づくりにすぎない。映画を観る以上、既にあるものにどれだけ“近づいているか”などという不毛な観点は、一切捨てたほうがいい。
かつて『あまちゃん』なんてメじゃないくらい、日本中を熱狂させた“連続テレビ小説”があった。それが30年後に映画化されたからといって、「そもそもあのドラマは……」などと、したり顔で比較して悦に入る老人たちの話をまともに聞いても意味はない。映画版『おしん』は、ひとりの少女の冒険を描く。ここで描かれる奉公は、“耐え難きを耐え”という清貧の具現化ではない。一見、地獄めぐりのようでいて、“世界”と出逢うこと、そして、自分探しのようでいて、内面からではなく外側から己のパーソナリティを見つけてしまうことが描かれる。もちろん明治という時代背景はある。けれども、起こっていることを真剣に見つめれば、わたしたちがこの2013年を生き抜くことと大差はないことに気づくだろう。人間は、家族以外の誰かに遭遇しなければ、何処にも行くことはできない。そのためには勇気がいる。ときには、自分を投げ出す覚悟も必要だ。けれども、この世には、その甲斐がある、その価値があると、この映画は語りかける。自分の部屋から、SNSから、まずは出てみようぜ。愚直に、一途に、真顔でつぶやいている。
『おしん』
公開中
文:相田冬二