「いもや」で学んだ、大切なこと

大森金三さん

「店を閉じる理由のひとつは、母が高齢になったこと。あと1年ぐらい続けられるはずだけど、会社に体力があるうちに止めないと清算ができなくなるから。そういう意味でもうギリギリかなあって……。有り難いことに、いまでもお客様に並んでいただいていますが、昔と比べるとやっぱりねえ……」

近年飲食店が軒並み増えてきた。長い行列ができる店もある。コンビニ弁当も昔と比べると美味しくなった。店頭で弁当を売っている飲食店もある。などなど複数の要因で暖簾を下ろす決心をした。

「長年続けてきた店なので閉じるのは悲しいけどねえ……。やりたい思いだけでは続けられないんですよ」

ご飯をきれいに食べることだけでなく、もうひとつ大切なことを「いもや」で学んだ。

天ぷらを揚げる音。パン粉がはぜる音。揚げたてのとんかつを、まな板の上で切るときの小気味いい音。

旨い店は、美味しそうな音も食べさせてくれることを、「いもや」で教えてもらった。

いまも昔も、昼飯時ともなれば店内に行列ができる。けれど、目の前で天ぷらを揚げる音や、とんかつを揚げる美味しそうな音が聞こえてくるので、並ぶのがまったく苦にならなかった。

順番を待ちながら、いつも思っていたことがある。
鍋の正面に座りたい。このことである。

鍋の正面が、「特等席」だった。

27歳の頃、銀座にあった高級天ぷら屋でかき揚げ丼を頼んだことがある。「いもや」の天ぷら定食の何倍もする、高級なかき揚げ丼だったが、店内のどこかにある厨房で揚げたかき揚げ丼は、味も素っ気もなかった。

目の前で天ぷらやとんかつを揚げる職人を目で追いながら、油がはぜる音を聞いていると、ほっとしたものだ。いま、自分のために天ぷらやとんかつを揚げてくれていると思うと、嬉しくなってくるのだ。

温かくて、芳しい香りが立ちのぼる店内で、美味しそうな音を聞きながら、揚げたての料理を頬張る。「いもや」での、そんなひとときが無性に好きだった。

腹をすかせた人を、「いもや」は美味しそうな音と、温かくて美味しい料理でいつも歓待してくれた。廉価で、これほど充実した料理を気兼ねなく、安心して食べさせてくれる店を、他には知らない。

ご馳走様でした。
長い間お世話になりました。
「いもや」と出会えたことに感謝します。
お疲れ様でした。

※営業は2018年3月31日(土)まで。

【天丼 いもや】
住所/東京都千代田区神田神保町2-16
営業/11時~20時
定休日/日曜
※天丼650円、えび天丼850円(ともに味噌汁付き)、おしんこ100円

【とんかつ いもや】
住所/東京都千代田区神田神保町2-48
営業/11時~20時
定休日/無休
※とんかつ800円、ヒレかつ1000円(ともに味噌汁付き)、おしんこ100円

東京五輪開催前の3歳の時、亀戸天神の側にあった田久保精肉店のコロッケと出会い、食に目覚める。以来コロッケの買い食いに明け暮れる人生を謳歌。主な著書に『平翠軒のうまいもの帳』、『自家菜園のあるレストラン』、『一流シェフの味を10分で作る! 男の料理』などの他、『笠原将弘のおやつまみ』の企画・構成を担当。

「うまい肉」更新情報が受け取れます