アーバンギャルドにとって「少女」とはなんだったのか

アーバンギャルド・松永天馬(Vo)

――「少女」はアーバンギャルドの重要なモチーフのひとつですよね。10年の活動を通して世の中の「少女性」というものに変化は感じますか?

浜崎:根本的には「少女性」も多分すべての時代で変わらないんじゃなかな。女性が月に一度発狂するのも逃れられないですし。確かに、それに対しての理解は増えているし、女の子が生きやすい時代になったかなと思う一方で、逆に生きづらい時代にもなっているのかな。

――それはなぜでしょう。

浜崎:うーん、これもSNSの影響だと思うんですが、「可愛くないといけない」みたいなプレッシャーがあるような気がします。

――アプリで誰でも可愛くなれる時代だからこそ。

浜崎:そう、だから可愛くなければ価値がない。あるいは、アプリで加工した自分の顔が本当の顔であってほしいという願望。

とあるカメラマンさんがおっしゃっていたんですけど、女の子を撮影していたら、出来上がった写真を見て「私はこんな顔じゃない!」と。スマホで加工された写真を見せて「私の顔はこうです!」と。彼女にはそれが本当の顔に見えているということですよね。

松永:今回、『少女フィクション』というアルバムを作りましたけど、今の時代皆フィクションに生きているんですよ。僕らが示したいのは、フィクションがリアルに変わる瞬間、それを僕たちはいつになったら得られるんだろう、という。

浜崎:得られませんよ……、皆いつかは死んでしまうんです。

松永:やや? メンヘラ発言が出ましたね? 2010年代に入って急速に廃れた女の子のファッションがふたつあって、「森ガール」(※森に住んでる女の子をイメージしたファッション。mixiコミュからブームが発生し書籍や雑誌も出るほどのムーブメントに)と「盛りギャル」(※髪の毛を高く盛ったギャルのこと。雑誌『小悪魔ageha』からブームが盛り上がる)ですね。これはどちらも「虚構」を現実に持ってきたファッションなんです。

それが震災後、急速に廃れていって、さっき浜崎さんが言ったように「アプリで作った顔」が真実に見えるような、自分にとっての「現実」の比重をネット上に重きに置いてる人が増えてるのかもしれない。現代人は虚構か現実かという自問もなく、「フィクションの中に生きている我々」であるという意味もあって『少女フィクション』なんです。

――例えば2012年にリリースされたアルバム『ガイガーカウンターカルチャー』には『ノンフィクションソング』という曲が収録されています。その時はまだ「現実」の方が比重が高かったとお考えですか?

瀬々: 震災前と後で、人の意識が変わったということはすごく感じます。震災前は森ガールとかが流行ってたのも、まだ夢を見ていられたんですよね。でも震災後の現実を見た時に、夢を見ていられなくなった。流行るものが肉体を伴うもの。服じゃなかったり、自分の体の一部になっていった。みんなリアルになっていった。現実的になっていったのかな。追い求めるものも変わってきたのも感じる。

松永:震災後しばらく、現実が否応なくフィクションを追い抜いた瞬間というのは確かにあったと思う。震災から生じた様々な問題はそれだけ過酷だったわけですが、この国の人々の多くはそれを「考えない」「忘れる」ことで対処していった気がします。その分、この数年で虚構が補強されたというか、ネット上にある虚構を現実だと誤認したまま今があるような。インスタ映えするけど、実際はまずいスイーツみたいな現実ですね。

僕はフィクションの力を信じていますが、フィクションは現実から逃げるためのものではなく、現実をつまびらかにするためにこそあると考えている。リアルに靄をかけるのではなく、より鮮明にさせるような。僕らにとって、そのフィクションの鍵となるのが「少女」という概念だった。

アーバンギャルドにとって「少女」とはなんだったのか? リスナーの女の子たちにとって結局「少女」とはなんだったのか。結局それは歌であり、作り物……フィクションだったんです。だからこそ『あたしフィクション』という曲を作ったわけで。

「あたしフィクション」PVはこちら>https://www.youtube.com/watch?v=6OyEi9QUlWQ