『スティーブ・ジョブズ』(C) Glen Wilson copyright The Jobs Film LLC Director Joshua Michael Stern.

映画はミステリー小説ではない。出来事の因果関係、辻褄合わせとか伏線の回収などが大好物のひとはミステリー小説を読んでいればいい。映画はラジオドラマではない。何が語られているか、どのような物語なのか、いい台詞はあるか、いい芝居はあるか、それが判断基準のひとはラジオドラマのほうが向いている。

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この映画もまた、自分はジョブズについてよく知っている、だからさらに詳しく知りたい、というような自負のあるひとや、iPhoneは使っているけどジョブズについては何も知らない、だからわかりやすく丁寧に教えてほしい、という初心者マナーのひと、どちらのひとも(両者は他力本願という意味でまったく同族である)満足は得られないだろう。映画は書物ではない。深く知識をゲットしたいなら専門書を読めばいいし、手っ取り早く把握したいならお気楽に名言集のページでもめくっていればいいだろう。

映画とは、ひとつの生命だ。生命に向き合う意志がなければ、何も掴みとることはできない。『スティーブ・ジョブズ』は立身出世を描くわけではない。物事の栄枯も盛衰も見つめられるが、それは結果的に派生したものにすぎない。これはひとりの男が生きたスピードを記録した映画だ。そのスピードは、駆け抜けた、などという凡庸なものではない。すべてを(おそらく自分自身をも)置き去りにしてきた、そのような速度がここでは体感できる。それはジョブズというひと固有のスピードだったことが理解できる。別にめまぐるしい映像紙芝居が繰り広げられるわけではない。ジョブズは“誰かに理解されるために”生きていたわけではない。孤立する生命の速度が映画として刻印されている。共感でも、羨望でもなく。ひとには、そのひとにしか持ち得ないスピードがある。そのことを本作のウェーヴフォームは、ひとつの“かたち”として肯定している。

ジョブズも孤立していたが、わたしたちもまた孤立している。そして、そのことはちっとも不幸なことではない。そのような“気づき”をもたらす映画。感動のコストパフォーマンスばかりを優先する観客に、まったく媚びない作品である。

『スティーブ・ジョブズ』
公開中文:相田冬二