『LEGO(R)ムービー』

わたしはレゴにはまったく興味がない。だがこれはスゲエと思った。なぜか。それはこの映画があらゆるカルチャーはなぜ作られるのか? という根源的な問いに最新にして最良のかたちで答えてみせたからである。旧石器時代から人類は絵画=洞窟壁画を描いてきたわけだがその永きに渡る文化は本作によってようやくひとつの円環を迎えたと言える。

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無名の作業員が救世主に指名され奔放な個性の仲間たちと共に世界を牛耳る支配者との闘いに身を投じる。名もなき平凡な男が英雄になり存在意義を見出す。漫画や映画やアニメやゲームなどで繰り返し語られてきた定型としてのヒーロー物語がレゴブロックというクラッシュ&ビルドが宿命づけられているパーツによって“演じられる”ことによってわたしたちはある真理を発見することになる。

たとえば未見のあなたはオモチャを擬人化した『トイ・ストーリー』を思い浮かべるかもしれない。だが違う。ボディは立体でも顔はシールのように平面でありつづけるレゴブロックは前述した通り破壊=創造が遺伝子構造になっている。オモチャに寿命があるということとはまったく別次元で新陳代謝が高速でおこなわれている。そのような場ではたしてアイデンティティは成立しうるのか。そのようなシビアで現代的な問題もここには織り込まれている。

とはいえシリアスな作品ではない。知性をちぎっては投げちぎっては投げを繰り返すキャラクターたちのフォームはそれ自体がギャグと化しており常に明るい自虐と愉快な罵倒がレゴ世界の住人たちのコミュニケーションとなっている。本気のような冗談と冗談のような本気が休むヒマなくセッションする様はレゴブロックが集積することによってもたらされる新次元の活劇ともあいまって思考的刺激を脳内に叩き込むのだ。

映画はあれよあれよという間にとんでもない領域に降り立つ。革命と神の問題を突き抜けた果てに提示される“答え”をここでは書かずにおこう。少なくとも童心に返るというお手軽な安心をもたらすものではなく自分自身の現在を鑑みスリリングに哲学するしかなくなる破格のポップアートであることは間違いない。

『LEGO(R)ムービー』
公開中

文:相田冬二