『映画クレヨンしんちゃん ガチンコ! 逆襲のロボとーちゃん』(C)臼井儀人/双葉社・シンエイ・テレビ朝日・ADK 2014

1993年にスタートした映画版『クレヨンしんちゃん』シリーズ。これまで数々の名作を生み出してきたが、ひょっとすると、この第22作が最高傑作かもしれない。

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『しんちゃん』は、現代仕様の普遍を提示するのではなく、現代のなかから普遍を探り当てる、稀有なシリーズだ。つまり、あらかじめ答えの出ている物語をイマ風に語るのではなく、現在進行形の問題にダイヴする。たとえば、『しんちゃん』の世界において、敵は一貫してマイノリティ(たとえば両性具有)として設定されている。つまりレジスタンスとしての犯罪行為、社会転覆を目論んだテロリズムとして、悪行は展開する。組織がどれだけ巨大化していようとも、彼らがおこなおうとしているのは支配ではなく抵抗だ。911はもちろんのこと、オウム地下鉄サリン事件よりも前から、このアニメーションはそのことを直視しつづけている。

新作でも、反社会的運動が描かれる。だが、ここでは敵との闘いが軸にはならない。“敵ならざるもの”との対峙こそが本作のテーマだ。

しんのすけの父ひろしはぎっくり腰をきっかけに、謎のマッサージ店でロボットに作り替えられてしまう。ロボとーちゃんは、ときどきおかしくなる(機能障害のようなもの)ものの、父性を抱え、行動力においては頼りになることこの上ない。ただ、外見も本質も、ロボットなのである。ロボとーちゃんは悪の組織によって作り出された悲劇の存在だ。人間ひろしは生きている。だから、ロボとーちゃんは“代用品”ですらない“偽物”として規定される。だが、それは人間側の一方的な言い分でしかない。あらゆる断罪は、そのような“常識”による決めつけによって行使されている。2014年の日本でも、ネット炎上と地続きのような徹底的な糾弾、排斥、差別がはびこっている。

本作でしんのすけは、そのような“常識”と闘う。クライマックスで彼が選択する行為は涙なくしては見られない。ありとあらゆる娯楽性を駆使しながら、この映画は“他者”との共存について考える契機をもたらす。困難な問題こそ、平易に描く必要がある。果敢にして大らか、徹頭徹尾庶民派目線の『しんちゃん』スピリットに、深く強く感動させられる。

『映画クレヨンしんちゃん ガチンコ! 逆襲のロボとーちゃん』
公開中

文:相田冬二

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