なぜこんなことに

フルネームで呼ぶなら「生麦第4踏切寺」になりそうだ
 

遍照院が「踏切寺」になった経緯についての記述がないかと、いままで読んだ京急に関する資料をいくつか読み返してみたが、残念ながら、触れられていないか記述があっても「踏切寺と呼ばれている」という程度しか書かれていなかった。

京急にも土地使用などについて、遍照院との関係を問い合わせてみたが、「個々の関係につきましてはお答えいたしかねますのでご了承ください」とのことだった。

京急によると踏切を通過する快速特急は時速120kmであること、また、京急に残る資料に「1942(昭和17)年11月、生麦第4踏切について、当時は北側の隣駅がキリンビール前駅であったため“キリンビール前第2踏切道”として記載されているなどはわかったが、ここに線路が敷かれ、踏切寺が現れた経緯についてはわからないままだ。

ちなみに、京急の川崎~神奈川間の開通は1905(明治38)年12月24日であり、『横浜市史稿 仏寺編』によると遍照院の開基は後花園(ごはなぞの)天皇時代(1428~64年)なので、おそらく踏切は1905(明治38)年から存在していたものと思われる。

『横浜市史稿 仏寺編』には、遍照院が1868(明治元)年1月7日の 神奈川宿火災で山門を残して焼失、1909~1910(明治42~43)年に堂宇(どうう)再建を遂げたともあった。そこで1905(明治38)年開通との関連についても確認してみようということで、この日、遍照院を訪ねるべく山門をくぐったのである。

 

お話を伺ったのは、お忙しいところ時間をつくってくださった遍照院第44代山本住職。

室町時代の1458(長禄2)年開基の遍照院は、もともと入江川に近い現在の一之宮社のあたりにあったが、徳川家康が江戸に入国した1590(天正18)年、東海道沿いの現在地に移転したという。

東海道のすぐ向こうが海だった当時、遍照院の敷地は東海道(現在の第一京浜)を渡った海辺まであったといい、現在も第一京浜の海側に遍照院の土地は残っているそうだ。

江戸時代、東海道のような大街道の道幅は6間(約10.8m)ほどだった
火に強い性質を持つことからイチョウは江戸時代、火除け地に多く植えられた
 

江戸時代後期、1786(天明6)年7月に火災で堂宇、什宝(じゅうほう)、古記録類などを焼失するが、山門は残った。その後、数代かけて寺院再建がおこなわれたが、今度は1868(明治元)年1月7日の神奈川宿火災でふたたび山門を除いて焼失することになる。

山本住職によると、山門横にある、横浜市に名木古木指定されている樹齢200年以上のイチョウの木が、山門を火災から守ったのではないか、とのことだった。

神奈川宿火災の後、堂宇の再建がおこなわれるのは1909~1910(明治42~43)年なので、もしかしたら一時的に廃寺のような状態になっていて、その間に京急が開通したのではないかと思ったりもしていたが、そうではなかった。再建までの間は焼失を免れた山門に本尊を祀りながら、寺院は存続していたそうだ。

火災後、本堂の再建はまだ行われていないながら、遍照院としての敷地は昔と変わらず存在していたが、京急(当時は京浜電気鉄道)の敷設工事開始に際し、山門の両側の線路が敷設された土地は売却。山門前の幅4メートルの敷地は無償貸与することで鉄道事業に協力した、というシンプルな経緯が真相のようだ。遍照院には土地の売買契約書も残っているという。