1998年6月。世界三大コンクールのひとつ、チャイコフスキー国際コンクールの声楽部門を制したソプラノの佐藤美枝子。優勝に限らず、3位以内に入賞した日本人声楽家はいまだに彼女だけだ。10月1日(月)に東京・紀尾井ホールで優勝20周年記念のリサイタルを開く(ピアノ=河原忠之)。

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コンクール参加を決めたのは、開催のわずか半年ほど前。「松本美和子先生からやっとお許しが出て、それから受験できるのはチャイコフスキーだけでした」。急遽ロシア語の発音を学ぶところから始めた。おそらくは短すぎる準備期間。しかし一次予選で大きな手応えを得る。今回の演奏曲にもあるチャイコフスキーの歌曲《子守歌》のあと、客席の大拍手が鳴り止まず、次の曲を歌い始めることができなかった。

「実はこの曲の最後の高いラ♭の弱声を克服できたのは、モスクワに入ってから。それからは、いくらでも長く延ばせるぐらい自信を持って歌えました」。そこで喝采を浴びて気持ちも乗った。ところが予期せぬ困難も。二次予選通過後、事務局の不手際で、事前に登録済みの本選の2曲のうち1曲を変更させられたのだ。代わりに指定されたリムスキー=コルサコフのアリアを中1日の急ごしらえで暗譜。それでも栄冠を獲得したのだからすごい。もう1曲の本選曲《ルチア》の狂乱の場の圧巻の素晴らしさは、当時発売された実況CDでも聴くことができる。彼女の代名詞とも言えるコロラトゥーラの超絶技法を駆使するこの難曲は、もちろん秋のリサイタルでも聴ける。

今回の選曲は、自分の表現、自分の声の色に徹底的にこだわった。「叙情だったり、激しさだったり、自分が今できることを最も出せる曲を選びました」。声の色やニュアンスだけで情景が浮かぶような表現者になりたい。高校時代にマリア・カラスのレコードで衝撃を受けて以来、その思いは変わらない。「ずっとそれを追い求めて、できることの幅も広がって自信もついて来たけれど、まだまだ勉強。たぶん歌手人生が終わっても、自分の生徒たちにそれを求めてゆくことになるのだろうと思います」

もうひとつ、今回の大きな挑戦だというのが声質とレパートリーの拡大だ。彼女が最も得意とするのは、ソプラノの中でも一番軽いレッジェーロの声質のレパートリーだが、年齢とともに声はふくよかに、重くなってゆく。今回はその重い声のための曲も加えた。「レッジェーロが歌えなくなってレパートリーを変えるのではなく、常に両方を歌えるような歌手でいたい。今年、オペラ《夕鶴》を歌わせていただいて、そのイメージが具体的に見えて来ました」

つまり、《ルチア》や《ラクメ》のようなレッジェーロの歌と、《ノルマ》や《エフゲニー・オネーギン》のような少し重いソプラノの歌の両方が並ぶ。両者をどう歌い分けるのか、あるいはどう共通の表現で聴かせるのか。20周年の集大成のリサイタルはまた、さらなる円熟に向けての新たな地平を拓く機会にもなりそうだ。

取材・文:宮本明