外見での「痛い」
結局、痛いというのは男性の目を意識しているのかどうかだと思います。
年甲斐もなくミニスカート。
年甲斐もなくニーハイ。
自宅で着ているなら別に痛いなどとは言われません。それが部屋着で外に着ていかないなら、他人の目にとまることもない。
家の中なら男性ウケもなにもないわけです。自撮りしたとしても、個人や、恋人との間で楽しむなら構いません。
それを公衆の目に触れるブログにあげたりするから、エッ?となるのです。
痛い女の言い分
痛いと批判すれば一段上に立てるよね。「私は年齢相応だし、目立とう精神もないし、ひかえめ。」そんな余裕を見せてるんでしょ。でもね、うらやましいのかと思っちゃう。
私は誰にも迷惑かけてないです。個人のファッションなんだから好きにしたらいいと思う。痛いと批判した人は、自分もその年になると言われてしまうんじゃない。
悪口を言いたいだけ、と思い気にしないことにしてます。
とにかくこの言葉の強烈さ。「痛い人探しや他人の痛いところ発見」は面白いのかもしれません。
男はそれほど気にしていない
しかし当の本人は前述のように、なんとも思っていないことが多いです。そして、男性もそれほど痛い女判定に興味はないのです。
「毎回三十路のくせに自撮り痛いよ」といくら女が騒いでも、男性はかわいければよしとしているし、「年取ってるくせに足出してる~」と騒いでもスラッとしているならさして問題はありません。
痛い女の美意識が男性の美意識とつりあっているならなんてことはないのです。
痛いと言われたら
周りと少し歩幅を合わせてみる。足りないくらいでちょうどいいのかもしれません。いかんせん、痛い人はファッション、カラー、そして内面的には心情もアゲすぎで盛りすぎですから。
でも言葉の意味なんて時代とともに移り変わるもの。
“ジンクス”の意味が「縁起の悪いもの」からいい縁起も含む意味に変わってきているように、“痛い”も愛すべきアチャーな人に変わる日も近いかも?