警視庁新宿署生活安全課所属。階級は警部。名字は鮫島。下の名前はわからない。
 所轄の新宿界隈に縄張りを持つやくざたちは、彼のことを<新宿鮫>と呼ぶ。90%の嫌悪と10%の畏怖の念をこめて。それは鮫島が他の警察官とはまったく違った存在だからだ。
 犯罪者に対してまったく容赦をしない。
 誰とも馴れ合わない。
 そして誰にも心を許さない。

 大沢在昌が1990年にシリーズ第1作『新宿鮫』を書き下ろしの形式で発表してから今年で22年になる。その年に生まれた子供が大学を卒業し社会人になるほどの時間が流れた。その間に発表された<新宿鮫>シリーズは10作。すべてが長篇で、読者からは絶大な支持を集めている。第1作が第44回日本推理作家協会賞、第12回吉川英治新人文学賞を同時受賞、第4作『無間人形』が第110回直木賞を受賞と大沢にとっての出世作にもなった。
 だが20年を超す歳月が経てば、自然と読者の年齢層も上がる。若い層には<新宿鮫>を知らずにミステリーを読み始めた者だっているはずだし、このジャンルから卒業してしまう読者もいるだろう。長く続いたシリーズの宿命である。大沢はそうした問題を正面から受け止め、奇策に頼らずに正面突破を図った。2011年に発表された最新長篇『絆回廊』は、これぞ警察捜査小説というべき内容の深さと大作と呼ばれるにふさわしい分量を備えた文句なしの傑作である。シリーズ第10作というハンデを背負いながら「このミステリーがすごい!」などの年間ベストテン企画で軒並み上位に選ばれたのは驚異的な出来事だった。
 そして『絆回廊』にはもう1つ、周囲を驚かせた仕掛けがあった。大沢はこの作品を、糸井重里が主宰する「ほぼ日刊イトイ新聞」に連載したのである。それまで大沢作品を読んだことがなかった利用者も「ほぼ日」にはいるはずだ。『絆回廊』は、そうした読者をもファンとして引き込んだ。<新宿鮫>が、そして大沢在昌が自身の実力を証明してみせたのである。






鮫島の貌 新宿鮫短編集
大沢在昌
光文社
1,575円






 『鮫島の貌』は、その<新宿鮫>シリーズ初の短篇集だ。
 大沢は、第9作『狼花』を発表したあたりから各誌やアンソロジーなどに鮫島の登場する短篇を発表し始めていた。それまでまったく書いたことがなかった<新宿鮫>の短篇を書いたのは、第8作『風化水脈』と『狼花』がシリーズにとっての重要な転換期を迎える作品だったからだろう。重厚な作品が続いただけに息抜きとして短篇を書きたい気持ちが作家の中に芽生えたのではないか。また、その2作が遊びを許されない内容であるだけに、軽い挿話を入れてファンを愉しませる意図もあったと推測する。全10篇の収録作品は、バラエティに富んでおり、どこから読んでも楽しい構成になっている。
 巻頭の「区立花園公園」は、鮫島が新宿署に異動してきたばかりのころを描いた作品だ。上司の桃井の視点から、厄介者と周囲に嫌われるようになった鮫島が描かれる。「夜風」「亡霊」といった短篇は、鮫島が新宿署での日々において遭遇するような事件が描かれる。一幕物の「雷鳴」が、ハードボイルドものとしては白眉の出来である。ある夜のバーの情景を描き、バーテンダーとヤクザ者、そして突然店にやってきた鮫島の緊張感ある会話が綴られていく。
 珍品としては鮫島がクラス会で高校のときの級友に会う「再会」(会話からすると鮫島の高校は、大沢の母校である東海高校なのではないか)や「似た物どうし」「幼な馴染み」が挙げられる。後者のほうは、意外なゲストが顔を出す内容だ。読者の興を削がないためにあえて書かずにおく。未読の人は絶対に巻末の初出一覧を見ないこと。そして掉尾を飾る「霊園の男」は、『狼花』の結末で命を落としたあのキャラクターをめぐるエピソードだ。
 ファンであれば間違いなく楽しめ、これまで<新宿鮫>シリーズを読んだことのない読者にとっては恰好の入門書となる1冊だ。これを読んだあとはきっと、第1作からシリーズに没入してしまうはずである。 

すぎえ・まつこい 1968年、東京都生まれ。前世紀最後の10年間に商業原稿を書き始め、今世紀最初の10年間に専業となる。書籍に関するレビューを中心としてライター活動中。連載中の媒体に、「ミステリマガジン」「週刊SPA!」「本の雑誌」「ミステリーズ!」などなど。もっとも多くレビューを書くジャンルはミステリーですが、ノンフィクションだろうが実用書だろうがなんでも読みます。本以外に関心があるものは格闘技と巨大建築と地下、そして東方Project。ブログ「杉江松恋は反省しる!