1978年、名古屋・大須のメルショップで自らつくった製品を売るメルコホールディングスの創業者・牧誠氏(中央、当時29歳)

【喜びの原点・1】 「もし米国で生まれていたら、間違いなくビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズのような存在になっていただろう」――。メルコホールディングスの創業者・牧誠氏が、2018年4月3日に69歳でこの世を去ったとき、多くの業界関係者が惜しんだ。本人の写真や資料、当時を知る関係者を取材しながら、牧氏がつくった経営理念「メルコバリュー」に込めた原点を振り返る連載「喜びの原点」。第1回は、創業間もない1978年に名古屋の電気街・大須のメルショップで、笑顔で販売する29歳の牧氏が感じた「喜びの原点」を紹介する。

その後の人生を変えたほどの衝撃

1975年、自宅の一室を改造してつくったプレハブ工場で立ち上げた小さな会社に、牧氏はメルコ(Maki Engineering Laboratory Company=牧技術研究所)と名づけた。その後のWi-Fiルータやストレージ機器などで有名になるバッファローからは想像できない、自らAVアンプをつくって販売する小さな音響メーカーとしてスタートした。

73年に早稲田大学大学院理工学研究科応用物理学を修了した牧氏は、秋葉原のオーディオメーカーのジムテックに入社。週刊BCNのインタビュー記事(2007年11月)によると、大学院生の時はラジオ雑誌にオーディオの論文を連載するほどオーディオに熱中し、ジムテックでアルバイトをするかたわら、同社の社長と約束したアンプの設計に没頭しながら、そのまま社員として就職したというエピソードが残る。

そんな牧氏が名古屋に戻って75年に立ち上げたメルコでは、設計・開発から製造、販売のすべてを一人でこなした。実際、オーディオアンプをライトバンに積んで自ら運転し、北は岩手県の水沢市から、南は福岡県までオーディオ販売店を回ったという。得意先で自ら社長を名乗るのが照れくさく、営業部長の名刺を持って営業活動をした。

写真は1978年に撮られたもの。2018年5月の牧夫人の回想によると、77年に牧氏と結婚してメルコでの仕事を手伝うなか、仲人だった人が名古屋に東京の秋葉原と同じような電気街をつくりたいと思い、それを実現させるために、牧氏は商売度外視で実行委員として手伝ったという。「そのご褒美に大須のアメ横ラジオセンターに3.3坪の店舗の権利を格安で貸してもらえ、そこで仕入れたスピーカーを売りはじめたのがメルショップのはじまり」と振り返る。

牧氏が社員に向けて遺した書籍『理念BOOK メルコバリュー』には、そんなある日のエピソードがつづられている。取引のある店からオーディオファンを紹介され、その人の自宅に行く機会を得た。訪問すると、ほかにも仲間のオーディオファンが集まっていて、まさか設計した本人がいるとは思わないため、みんな本音で製品について語った。牧氏によると「ボロクソに言われる経験をし、その後の私の人生を変えたと言っても過言ではない」と記すほどの大きな衝撃を受けたのだ。

その時受けた衝撃こそが、経営理念のメルコバリューにある「顧客志向」「変化即動」「一致団結」「千年企業」の四つの理念のうちのひとつである「顧客志向」につながる原体験だった。16年4月5日に牧氏が語った資料に、当時の心境を振り返っているので、そのまま記す。(BCN・細田 立圭志)

会社が初期の頃はOEM(相手先ブランドによる生産)をやりたくて仕方がなかった。なぜなら楽だから。でも、やらせてくれる会社がなかったから、仕方なくコンシューマをやるしかなかった。そこで、オーディオアンプを背負って、恥ずかしいから営業部長の名刺をもって全国のオーディオショップを回ったんだ。

そしたら、“自分がこれがよい”と思っていたものと“お客さんがこれがよい”というものが違うことを思い知らされた。でも、そのふたつにそれほど差がないこともわかった。だから、会社に帰ったらすぐにチューンナップして売ったよ。それでお客さんが「そうそう、これが欲しかったの!!」と喜んで代金を受け取った時はうれしかったね。

舞台がパソコンに移った後はユーザーが無数にいるから、1つ1つの声をすべて聞くんじゃなくて、帰納的に抽象化して一般化したユーザーニーズをさらに先読みして製品化する術を覚えた。

今考えると、OEMをやらなかったのは結果として正解だったね、苦しい道だったけど。そのおかげで、お客さんを喜ばせて自分もうれしい、しかもお金ももらえる、という最高の自己実現を知ることができた。その原体験がメルコバリューの”顧客志向“につながっている。