「ハマトラ」ブームのエピソード

続いて「ハマトラ」について伺うことに。すると「もともとハマトラは地元にあったファッションなのよ」と鈴木さん。JJなどのファッション誌に取り上げられ、全国的に広まった。1970(昭和45)年に『anan』、1975(昭和50)年には『JJ』が創刊。70年代には「数々の女性ファッション誌が創刊された」という背景があるのだろう。1970年後半から80年代前半にかけて「ハマトラ」は一大ブームに。

当時一番人気だったという「ブルーのスエッツシャツ(婦人9500円・紳士1万円)」

当時のエピソードを伺うと、「子どもだったけど、お客さんが多すぎて扉が壊れたのを覚えている(笑)」と珠水さん。鈴木さんが開店30分前に店へ来ると、お客さんが角まで並んでいたそうだ。当時、20歳そこそこだったという鈴木さん。お客さんとも同年代だったため、店に入ると「(お客さんと間違われて)なんなの?」という目で見られることもあったとか。 

 
「ドアも壊れた」とはすさまじい・・・

雑誌を見た女性が押し寄せ、棚に商品がなくなることもあったらしい。なので、棚にはお客さんの名前が書かれた紙だけが張ってあり、「ここはクリーニング屋さんなの?」と言う人もいたらしい。

あまりにお客さんが殺到したため、「20名ずつお客様を(中に)お入れしたそうです」と珠水さん。表にはお客さんが並んでいるため、「裏口から帰っていただいた」とのこと。

「ハマトラ」は「フクゾー」のシャツやトレーナー、ポロシャツを着て巻きスカートが定番だったようだ。

聞き込みしたところ、「ハマトラといえばフクゾーのポロシャツ!」という女性も
 

スタッフの方にご協力いただき、当時のファッションを再現。
ハマトラが流行ったころ「中学生だった」という女性。あまりに流行っていたので「母がハマトラファッションを買ってきた」とのこと。

「ハマトラ=フクゾーの巻きスカート」という女性も多かった

パーソナルコーディネーターの男性にもお話を伺う。栃木出身という男性。昔は現在のようにインターネットで情報が得ることができなかった。「そのため情報は現地に行かないとなかった」とのこと。「1980(昭和55)年初頭に最盛を極めた“竹の子族”に参加するため、始発で現地に行っていた(笑)」らしい。

「ハマトラ」も現地(フクゾー)に行かなければ買えなかった。「街角スナップ」も「横浜駅そごう前、午前10時集合」などと「雑誌に募集要項が載っていた」と男性。情報がなく、不自由なぶん、当時は「ファッションにかける想い」がより強かったのかもしれない。

「竹の子族」のファッション

「竹の子族」のファッションはド派手な色合いや般若or悪魔のような柄など「ツッコミどころ満載」。だが、男性が履いている“上履きのような靴”がもっともキニナル。

 

続いて元町商店街にある洋食器専門店「タカラダ」へ。当時「ハマトラファッションでキメていた人」を探すべく、聞き込み開始!

 

優雅な雰囲気が漂う「タカラダ」

すると「当時ハマトラでキメていた女性を知っている」との情報が! その女性とは元町で「健康優菜 ひら」を経営する通称“通称ひらのママ。実はママは「元町 梅林」の創業者である平川禮子さんの娘さんなのだ!

ママによると、当時は「元町が元町らしく、一番いい時代だった」そう。現在、元町には東京資本の店も増えた。しかし、以前は「個性的なお店が多かった」らしい。「やはりフクゾーさんやミハマさんがすごかった。元町を牽引してきたと思う」とママ。フクゾーの鈴木さんによると「当時フクゾーの服はそんなに高くなかった」とのこと。

しかし若者にはすぐに手に入る値段ではなく、「ちょっと背伸びをする」という感じだった。そのため「皆バイトをしてフクゾーさんの服を買っていました」とママが教えてくれる。

と、ここでギッシー(はまれぽ編集部・山岸)が「ハマトラ再現して!」とかるーくひと言。「えーーー!!!」と驚く松宮。が、なんとかしなくては! と、いうことで「ミハマ」と「キタムラ」の方々にご協力いただき、“ハマトラ”を再現することに!