佐々木誠監督

ハンディキャップ=マイノリティって失礼じゃない?

そもそもハンディキャップのある人々との付き合いは偶然から。ある仕事での出会いからスタートした。それまではたとえば障害者をテーマにした作品作りなどまったく考えていなかったという。

「かれこれ8年ぐらい前だったと思うのですが、仕事でいったあるイベントで、障害者の人と仲良くなったんです。今回の映画にとんでもなくロックな(笑)車イスに乗って登場している、門間(健一)さんとか。それで飲みに行ったことがあったんですけど、そのとき、たまたまヘルパーを連れてこなかった人がいて、彼がトイレに行きたくなった。周りをみたら、自分しか手をかせる人間がいない。ですから、もう、やるしかない。で、トイレを手伝ったんです。介護士の仕事ってこんな感じなのかなぁと思いながら(笑)。

それで後日、知人と会ったとき、流れからこの話になって。すると、彼にものすごく驚かれた。彼曰く、“そうなったらたぶん仕方なく手伝うとは思うけど、それ以前にそういう場には行かない”と。このことがすごくショックだった。これまでの付き合いから、彼も決して悪い人間じゃない。でも、そういうふうにハンディキャップのある人=マイノリティであって、おれたちとは違う、別世界の人と決めつけている気がして。“この考え方ってどうなの?”と思ったのがすべての始まりだった気がします」

 

障害者のセックスに触れることってほんとうにタブーなの?

今回の映画『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』で佐々木監督が挑むのは、マイノリティとマジョリティの境界線を、虚実を交えながら3部構成で考察していく試みだ。

虚構の人物とも本人ともとれる「ワタシ」がストーリーテーラーとなって、ある容疑をかけられた精神に問題を抱えた青年、重度の身体障害を抱えた者、アメリカ人留学人女性らと対峙。正気に保たれているか、常軌を逸したかを決めるのはどこ? 健常者だけど性的不能と障害はあるけどセックスはできる、これってどっちがマイノリティなの?といった、きわどいお題にアプローチしていく。その中でもっともあらわになるのは、社会ですでに共通認識されてしまっている“勝手な思い込み”かもしれない。

「たとえば、障害者の性を扱うだけで“問題作”というキャッチがつくのって、たぶんハンディのある人=マイノリティで守られるべき人、またはハンディのある人=天使もしくは聖人君子的存在=セックスとは無縁、極論かもしれないけど、そんなイメージがどこかあるからだと思うんです。でも、ちょっと考えればわかるように、彼らと僕らも心は変わらないんです。相手のことが気になれば恋もするし、好きになればセックスを求めたくなる。人として普通のことですよ。恥ずかしながら僕の周りの障害者の友人の方が、僕よりセックスライフが充実していましたから(笑)。

ただ、そういうことが今の社会通念だとナシにされてしまう。たとえば自らの身体的なハンディを、鼻が低いとか健常者で言うとちょっとしたコンプレックスぐらいにしか思っていない障害者もいる。勝手な思い込みって世の中にはいろいろとあるけど、それにしてもハンディのある人は、あまりに固定されたマイノリティのイメージでくくられすぎている気がしてならない。常に思います。“それをもう少し変えられないか”と」

 

恋愛、セックス、劣等感、それは誰もが求め抱くものだ!

さまざまな体験を経た佐々木監督は今、こんなことを考えているという。

「マイノリティとマジョリティ、マイノリティのセックスなど、いろいろなテーマに取り組んできましたけど、僕が思うのは繰り返しになりますけど“誰もが恋をするし、人間の本能の欲求としてセックスを求める。そして、誰もが自分には何かしらの劣等感を抱いている”ということ。そこにマジョリティとマイノリティの境界線はない。そもそも世の中、そんな簡単に線引きできないのではないでしょうか? 作品を通して、世の中にある常識やイメージがはたして正しいものなのか? 自分が社会を見る目が狭くなっていないか、考えるきっかけになってくれたらうれしいです」

「ウレぴあ総研」更新情報が受け取れます