伊藤悠貴 撮影:吉田たかゆき 伊藤悠貴 撮影:吉田たかゆき

ロンドン中心部にあるウィグモア・ホールは、550席ほどの室内楽ホールながら、その舞台に立つことが一流の証と言われ、演奏家の登竜門的なステータスを誇る音楽の殿堂だ。昨年6月、そこでオール・ラフマニノフ・プログラムを弾いて絶賛を浴びたのが日本人チェリストの伊藤悠貴。3月29日(金)東京・紀尾井ホール、その再現となるラフマニノフ・リサイタルを開催する。

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15歳からロンドンで暮らした伊藤にとって、ウィグモアはひときわ憧れの場所。ホールが認めたアーティスト以外は舞台に立つことすら適わないという格式高い名門でのチャンスに、満を持して選んだのが、「凝りに凝ったプログラミング」と自負するオール・ラフマニノフだった。少年の頃に本格的にチェリストを志すきっかけとなった作曲家であり、「ライフワーク」と公言する存在。ホールのスタッフから、「チェリストが弾くオール・ラフマニノフはこのホール初。君が新たな歴史を作ったんだ」と教えられ大感激したという。

「ラフマニノフの作品には、自分自身を投影できる。その感覚は出会った頃からずっと変わることがない」と伊藤。ほぼ毎晩ラフマニノフを聴いて眠り、チェロ・ソナタはもう100回以上も弾いていると、作曲家愛をあらわにする彼にその魅力を訊ねると、まったく迷うことなく、「歌」だと言い切った。「ラフマニノフというとピアノ曲やオーケストラ曲のイメージが強いかもしれませんが、僕は歌の作曲家だと思っています。歌曲も多い。そしてチェロは歌ってなんぼの楽器です。歌わなければ意味がない。チェロで弾くのにふさわしい作曲家です」

実際、ラフマニノフにはチェロのためのオリジナル作品はわずかしかないため、今回も歌曲の編曲版を多く弾くことになるのだが、「オーケストラ曲を聴いていてもラフマニノフがチェロ好きだったのは明らか。歌曲をチェロで弾くことにも、大いに意味があると思います」

代表作であるピアノ協奏曲第2番に象徴される、ラフマニノフの甘く美しいロマンティックな作風を、「まるで映画音楽」と揶揄する向きもあるが、伊藤は、「そういう方々のために、今回のプログラムなんです!」と胸を張る。10代から20代前半で書いたごく初期の作品から、あまり聴かれていない中期から後期の作品までが並ぶ、クロノロジカルに作曲家の全貌を見渡す構成。「だんだん内容が深まってゆき、時代によって全然タイプの異なる曲を生んだラフマノニフの作風の変遷を、ぜひ聴いていただきたいと思います」

ロンドンでは公演時間の事情で入れられなかった曲(歌曲〈夢〉作品38-5)も今回の日本公演では演奏する。これが当初意図した「完全版」なのだそう。共演ピアニストは若手のホープ藤田真央。「自分のイメージするラフマニノフにふさわしい音のクォリティを感じる」と信頼を語る。音楽の殿堂が認めた「世界基準」のチェロが歌うラフマニノフへの愛。けっして派手ではないかもしれないけれども、こういうキラリと光る大切な音楽会を聴き逃してはいけない。

取材・文:宮本明