わたしたちが「キムタク」を“捏造”した理由

ドラマにせよ、映画にせよ、多くの場合、演技は、そのひとの「素」と対比することで、判断される。たとえば、中居正広であれば、バラエティでMCをしているときのペルソナと、『ATARU』の超絶的な演技が比較される。

稲垣吾郎にも、草彅剛にも、香取慎吾にも、そうした「素」としてのペルソナがあり、わたしたちは共有している。クールな稲垣が、のほほんとした草彅が、おっはーな香取が、別人格を演じるから、その落差を享受できるのだ。

一般的に、ひとが「あのひとは演技が上手い」と語るとき、基準となっているのは、こうした落差であり、この落差が際立てば際立つほど、その演じ手の演技は肯定される傾向にある。
ところが、木村拓哉の場合は、わたしたちが落差を感じるために必要な「素」が、よく見えない。
「キムタクはなにをやってもキムタク」という言説が浮上した理由は、こうした背景にある。

多くの大衆は、演じ手が演じたある役と別な役ではなく、役とそのひと(つまり「素」)を比較する。その差異が、演技を見つめるときの基準になっている。
木村拓哉には、わたしたちが共有できるペルソナが見当たらない。だから「キムタク」を捏造した。


端的に言おう。
わたしたち大衆は木村拓哉を畏れている。
 

もし、彼が、存在感のない、ただのイケメンであったとしたら、とっくの昔に淘汰されているか、イメージチェンジを余儀なくされていただろう。ところが彼は少なく見積もっても20年以上、イメチェンを要求されることなく、むしろ、木村拓哉であることを求められつづけている。

もしイメチェンがあったとしたら、わたしたちはそこに「挫折」と「再起」というわかりやすい物語を捏造して(もちろん、それは妄想にすぎないのだが)、彼を許容しているだろう。物語こそ最強のレッテル貼りであり、物語ほど浸透度の高いものもないからである(昭和の時代は、歌い手や演じ手の背景に物語が必要だったが、21世紀において、物語を必要としているのは芸人やアスリートだろう)。

ところが、木村拓哉はいまのところ、明確なイメチェンはしていない。かといって、バラエティに客演しているときの彼は、決してスター然と振る舞っているわけでもない。

比較として相応しいとは思わないが、たとえば及川光博のような絵に描いたような「わかりやすい」虚構性が見あたらない。それでいて「素」が不明。このとらえどころのなさを、わたしたちは深層心理のなかで畏れている。