『談志 名跡問答』に収録されている立川談志と石原慎太郎の対談を読んでお茶吹いた。同書は雑誌「en-taxi」に掲載された記事をまとめた本なのだが、「歳月を経て猶も定めず」と題したこの対談は2006年の収録(「en-taxi」14号)なので、談志はまだ「芝浜」を長演できる程度には元気だった。その談志が、無闇に陽性で元気な石原に押しまくられて唖然としているさまが行間から伝わってくるのである。

談志 さっきからよく食うし、よく飲んでるよ。元気なヤツは大抵バカなんだ。バカじゃ知事にはなれないだろうから、客観的にはバカじゃないんだろう。バカじゃないくせに、なんでこんなにガブガブ飲むんだろうね。
石原 お前も、一杯飲みなよ。昔、俺のことアニさんって呼んだじゃないか。俺の杯、受けろ、改めての兄弟仁義だ。
談志 こりゃ驚いた。「らくだ」になるとはネ。

 この対談の中で談志は興味深い分析をしている。人間には「親が子を殺したり、子が親を殺したり」するような「異次元の感情」があるが、通常は常識の力で抑えつけ、「落語を聴いたりして発散」していた。「だけど今の連中は落語を聴く知能もないから、コメンテーターなんていう連中の言うこと聞いて発散して」いる。「グロテスクな犯罪だって、皆が望んでいることなんですよ」というのである。こういう発言を、石原は完全には理解できていないようだ。異常犯罪が増えた理由を「人間が弱くなってるんだよ」「これまで抑制してきたものが、人間が弱くなったから抑制できなくなったんだ」とあくまでマチズモの論理で語ろうとする石原に対して談志は「人間にはもともとそういう部分があるんだ。わけ分かんないことを言ったりやったりする部分が」と、それが本来の人間の姿なんだと主張するのである。ここにタカ派の石原と交友を持ちながら(快楽亭ブラックには『立川談志の正体』で体制擁護者と揶揄されてもいる)、決して同化しなかった談志の体質が現れているように思う。立川談志は徹底した現実主義者だったのだ。
 『談志 名跡問答』の前半部では、昭和の名人と呼ばれた落語家たちについて、福田和也を相手に語っている。この部分は芸談として、また、下品ではないゴシップとしておもしろい。たとえば五代目古今亭志ん生(故人)について語った個所では、こんな発言がある。

談志 (前略)志ん生を何かに帰属させると、「めちゃくちゃ」であるとか、「貧乏」であったとか、「勝手」であるとかといろいろ入れているけど、志ん生の腹の中はいったい何なんだろうと……何もねえんじゃねえかというような気もするね。行き当たりばったり。一例には娘売っちゃう話だとか、そのくせ志ん朝、朝太をあれだけかわいがって売り込んだりね。

「娘売っちゃう」というのは、志ん生が桂文楽(故人。先代)に娘を養子として売ろうとしたという話だ。そのため息子の古今亭志ん朝(故人)は姪の池波志乃に「おじいちゃんのそばに行くと、売られちゃうよ」と言っていたのだとか。この話は志ん生の娘の美濃部美津子の著書にも出てくる実話である。
 この他、福田和也を相手に映画監督ビリー・ワイルダー論を語った章や、作家・結城昌治(故人)を評した章など、発見も多い。談志ファンなら読んで損はない一冊だ。

 談志関係では弟子の立川志らくが、師匠の言行録『談志のことば』を発表している。熱狂的な談志主義者である志らくは、師匠と最後に面会した弟子である。病院で会った師匠から最後にかけられた言葉は「電気、消せ」だった。そのときの模様を振り返った章をはじめ、談志のことばを自身で解釈する形式でこの本は綴られている。たとえば、志らくと対談したドイツ文学者の池内紀は、「電気、消せ」をゲーテの最後の言葉と言われる「もっと光を」と対比してみせたのだという。その池内の言葉をさらに志らくが解釈し、「志らく的談志視点」のようなものを読者に呈示する、というのが本書の主旨である。「オレの談志はこういう談志だ」ということですね。
 現在の志らくは、無理を承知で立川流家元の偉大な業績を継承しようとして奮闘を続けている。おそらく今後の立川流の動向を左右する最大のキーパーソンだろう。あるときから志らくは、「師匠が私の体に入った」と思い込むことで談志がいない喪失感を解消するようになったという。そうすれば師匠はまだまだやり残した落語をやることができるし、好きな懐メロを聴いたり歌ったりすることもできるし、映画だって観られるではないか。
 ――そんな話を高座でしていたら、あるインタビュアーが「現在、談志師匠はこの世の中を見てなんとおっしゃっていますか?」だって。私はイタコじゃないよ! 身体の中に入ったと勝手に決めただけ。

 談志が死んだ後にはさまざまな追悼記事が出て、数多くの著名人が生前の談志を振り返り、また自身の談志論を述べた。その中には、談志の高座を「見もしない聴きもしないで判断する」偽物もあったとして、志らくはこう書いている(引用元は実名)。

 ――○○さんのなにがいけないかというと、談志の落語を生できちんと聴いていないということだ。そこそこは聴いてはいるだろうが、談志が演者としてより評者としてのほうが優れていたと判断するほど、談志を聴いていないではないか。談志の落語は嫌いだから聴きに行かなかった、でいいではないか。私は彼女の書いた文章をあまり読んだことはない。その私が「○○の文章は、ウィットにとんだ話題より、真面目に書いたときのほうがすばらしい」と断言したらどう思いますか。そんな失礼なことは絶対にできない。

 本物を愛し偽物を嫌う(ちなみに前述の引用個所は「俺は自分が偽物だと知っているから本物なんです」という章に出てくる)、恥を知り身の程をわきまえる、急に売れたからといって外車を乗り回すような恥ずかしい真似はしない、といった良識が談志には備わっていた。親衛隊といってもいい弟子が、その美点を熱く語った一冊である。

すぎえ・まつこい 1968年、東京都生まれ。前世紀最後の10年間に商業原稿を書き始め、今世紀最初の10年間に専業となる。書籍に関するレビューを中心としてライター活動中。連載中の媒体に、「ミステリマガジン」「週刊SPA!」「本の雑誌」「ミステリーズ!」などなど。もっとも多くレビューを書くジャンルはミステリーですが、ノンフィクションだろうが実用書だろうがなんでも読みます。本以外に関心があるものは格闘技と巨大建築と地下、そして東方Project。ブログ「杉江松恋は反省しる!