幼い頃は素直でいい子だったのに、小学生になって反抗的になったり、次第に言葉遣いが荒くなったりする子どもがいます。なんだか悲しいですよね。

こうなると幼児期の躾は無意味だったのでしょうか?人は感化されやすいので良い友人を選ぶことが重要なのでしょうか。

一人でできる子が育つ テキトー母さんのすすめ』の著者の立石美津子がお話します。

小学校、中学校に行くと態度が悪くなっている!?

幼稚園、保育園では、先生が「皆さん~今からトイレいってらっしゃい」と言うと「ハーイ!」と可愛い手を挙げて、トイレに並ぶ子ども達だったのに…。お弁当の前には可愛い手を合わせ「いただきます」と頭を下げていた子ども達だったのに…

小学校の授業見学に行くと私語をしたり、よそ見をしたり学級崩壊しかけていました。その後、中学校の授業参観に行ったら更に状況はひどく、言葉遣いもなんだか悪い…

幼児よりも年齢が高いのにも関わらず、態度があまりよくありません。

こんな光景を見てふと「目の前の可愛い素直な子ども達も将来、こんな中学生になってしまうのかなあ」と思いました。

でも、幼児期にしっかり躾をしているのならば大丈夫です。どうしてかというと“幼児期に身に付いたものは石の上に刻まれ、大きくなってからの躾は氷の上に刻まれる”からです。

流行り言葉に対して、神経質になる必要はない

小学生になった途端、「うっそ~ほんと~超、っていうかあ、ぶっちゃけ、~じゃん」など周りの友達に流されて、盛んにこれらを使う子どもがいます。

また、幼い頃は幼稚園であったことを「今日は○○君と遊んだ」「先生に紙芝居を読んでもらった」と嬉しそうに話してくれていたのに、何を聞いても「別に」「普通」と愛想のない返答が返ってきます。

更に親がしつこく学校であったことを聞きだそうとすると「うざい」なんて言われてしまうこともあります。

こんな態度をされると「幼児期はあんなに素直で可愛い子どもだったのに…」と悲しくなりますよね。でも心配無用です。

小学生になると幼児期と違い“大人対子ども、先生対子ども、ママ対子ども”の世界から友達との関係性が複雑化し、大人との関係よりも友達関係を優先するようになってきます。これも成長の一過程です。

そんな中で、仲間意識を強めるために相手に合わせて流行り言葉をあえて使って、友達の輪に入ろうとする子もいます。

けれども、決して幼児期に教えたことが消えてしまった訳ではありません。出るべきところへ出れば、幼いことに身に付いた言葉遣いは母国語の基礎としてしみ付いています。

その証拠に幼児期は園の担任に「先生、おしっこ~」「先生~クレヨン~」と言っていた幼子たちも、小学生になると担任に「先生、トイレに行ってもいいですか?」「鉛筆を忘れたので貸してください」と言えるようになってきます。

更に幼いうちから親が目上の人の敬語を使う姿を見せている家庭の子どもは、丁寧語だけではなく「鉛筆を忘れたので貸して頂けますか」「鉛筆を忘れたので貸してくださいますか」の敬語も正しく使えるようになってきます。

0歳~6歳までに育つ家庭の中できちんとした日本語を聞いていれば大丈夫です。流行り言葉に対して神経質になって禁止する必要はありませんよ。

幼い頃からの躾が重要

片付けとは実にシンプルなもの。元あった指定席に戻すだけの単純な作業です。

「もう出かける時間だから、元あった場所にしまってね」と習慣つけられている子は“散らかっていると気分が悪い”感覚が付いています。そうなると自ら整理整頓ができる大人に成長していきます。

けれども、幼児期に親が「時間がない、私が片づけた方が早い」としていると、片づけの習慣は身に付かないまま大きくなります。

小学生になって整理整頓できないと机の中からカビたパンや未提出のプリントがごっそりでてくると困ります。その時点になって先生や親が注意し始めます。

すると「先生が怖いから片付ける」「親がうるさく怒るから渋々片付ける」となってしまいます。つまり「自らそうしたい」という内発的動機付けで動いている訳ではないのです。外発的動機つけで「叱られるから、不本意ながら片付ける」だけなのです。

幼児でも歯磨きの蓋を開けたまま、チューブをその辺に置いたままにしていたら親が元あった場所に戻すのではなく、子どもにやらせましょう。これで習慣化していきます。

先日、中学の授業参観に行きました。私語も多く結構荒れたクラスで床にカバンを置いたまま平気でいる生徒が多くいました。そんな中でも自分のカバンをちゃんと指定場所に置いている生徒がいます。

幼い頃、家庭でちゃんと躾けられているので、特に先生から注意をされなくても、自分自身がかばんを指定席に置いておかないと気になるのですね。ですから、周りの友達が散らかしたままでもそれに流されることはないのです。