ことの発端は、'08年にホアキン・フェニックスが突然俳優業からの引退を表明したことだった。2度もオスカー候補に挙がった実力派スターの引退宣言に世間は驚いた。いや、引退より驚きだったのは、俳優を辞めてラッパーに転身すると言い出したことである。

それを受けてホアキンの義弟でもあるケイシーが、義兄のラッパー活動をドキュメンタリー映画にすると発表。ホアキンはテレビ番組で挙動不審な姿を見せ、ライブ会場で観客に殴りかかるなどドキュメンタリー的に〝おいしい〟奇行を連発。ヤラセではないかとの憶測も出たが、一貫していかに音楽活動に真剣であるかを主張し続けた。

ところが、である。『容疑者、ホアキン・フェニックス』が完成すると、監督のケイシーは実はドキュメンタリーではなくモキュメンタリーで、ホアキンの俳優引退もラッパー活動も映画のための〝演技〟だったと告白。あまりのお騒がせっぷりに、世間は怒りと悪罵の声であふれ返ったのだ。

似たケースとして、英国のコメディアン、サシャ・バロン・コーエンが仕掛けた『ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習』と『ブルーノ』がある。コーエンは両作品で差別意識や偏見に満ちた別人に成りすまし、ドキュメンタリーと偽って有名無名の人々を取材(時に隠し撮り)。彼らの反応をネタに皮肉たっぷりの映画を作り上げ、さまざまな論議や訴訟を巻き起こした前歴がある。

   
とはいえホアキンのような有名人が私生活まで犠牲にして、2年間も世の中を騙し続けたのは前代未聞のこと。まさに一世一代の大芝居。バレたらすべてオジャンという緊張感の中での迫真の壊れっぷりは凄まじく、ホアキンの演技力には文句のつけようがない。

では果たして映画自体に自作自演の大騒動に見合う意義と価値があったのか? ここでは「セレブとメディアにまつわる興味深いテーマが探求されている」と答えるに留めて、観た人それぞれの判断に委ねることにしたい。