『毒島ゆり子』で“元AKBの前田敦子”を完全払拭!彼女の新・可能性を総括

2016.6.29 16:00

前田敦子主演の連続ドラマ『毒島ゆり子のせきらら日記』がついに終わった。ドラマの面白さから見えてきた、女優・前田敦子の新たなる可能性を総括する。

『毒島ゆり子のせきらら日記』が終わった。

美登里(渡辺大知)は、「ゆりちゃんが泣くとこ、初めて見た」と言ったが、わたしも同じことを思った。

前田敦子が泣くのを初めて見た。

いや、現実には、映画やドラマや総選挙(一度、武道館に行ったこともある)などで、前田の涙を目撃しているはずなのだが、そんな記憶はすべて消え去り(事実、いまこうして書いていても、映像作品で彼女が泣いている姿がどうしても思い出せない)、いま、初めてこの女優の泣き顔にふれた気がしている。

だが、それこそが、演じ手が、観る者にもたらす確かな表現というものなのではないか。

このドラマの成果は、すべてそこにあったと思う。

ある場面では、毒島ゆり子が怒るところを初めて見た、と感じた。

ある場面では、前田敦子の笑顔を初めて見た、と感じた。

ある場面では、毒島ゆり子のまなざしを初めて見た、と感じた。

ある場面では、前田敦子の声を初めて聴いた、と感じた。

それが、毒島なのか前田なのか、その境界線が不可視のものとなり、そんなことよりも、目の前にいるひとりの女性が、自分が知らなかった、初めてのなにかを見せていることに、ただ感じ入っていた。

演技であれ、芸術であれ、ほんものの表現は、わたしたちの感性を更新する。初めて「それ」に出逢った感慨をもたらす。既知の情報からもたらされる思い込みを抹消し、「次」の次元に連れてゆく。

ちょうど4年前の6月、SNSにわたしは次のように記した。

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意思的であること。前田敦子の魅力はそこにあると思う。

ポジティブシンキングとか負けず嫌いとかそういうことではない。自分は自分という開き直りでもない。自分というものをわかりやすく翻訳しないという意思。既存のキャラに自分を当てはめてスライドさせて、それを巧妙に演じることが空気を読むということだと思うが、それをもっとも求められる芸能界という職場でそれをしないという意思。

もはや天然という領域ではない。無意識で乗り越えられる限界を、彼女は随分前に突破している。

以前、演技者としての彼女について、天才でもなければ秀才でもない、と書いたことがある。

天才はときとして、やりすぎてしまうことがある。そして、やってはいけないことまでやってしまう。どんな監督もそれを制御することはできない。秀才は努力型である。努力を追求するものは、どこかで努力が実ることを願っている。結果、ほめられることを求める、物欲しげな芝居に陥ることにもなる。

前田敦子の演技の素晴らしさは、やってはいけないことをけっしてやらないことにあり、観る側に対して、こう見てほしいという目配せがいっさいないことにある。

彼女は天才の限界と秀才の限界を、いつの間にか突破している。

 

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