インターコムの創業を振り返る

【インターコムの進化論 独立系日の丸ソフト会社の歩みとこれから・2】 インターコムの創業は1982年で、当時、まさにパーソナルコンピューター(パソコン)の黎明期といった時代であった。その後、同社は独立系パッケージソフトベンダーとしてパソコンの普及と共に成長していくわけだが、もともと組織内の技術者であった高橋啓介会長兼社長CEOがいかに時代の波を捉えたのか。今回は起業までのストーリーを紹介していく。

高橋会長はインターコムを設立する前、ミニコンピューター(ミニコン)向けのソフト開発や受託開発、ミニコンの販売を行うシステム開発会社で、ソフトウェアエンジニアとして活動していた。

ミニコンとは、高価で大規模な汎用コンピューター(メインフレーム)がコンピューターの絶対的なスタンダードだった時代に登場した、機能や価格を抑えた小型のコンピューターである。米国のデジタル・イクイップメント・コーポレーション(DEC)が開発し、国内でも日立製作所、富士通、NEC、沖電気工業など多くのメーカーが追随したが、90年代には市場から姿を消している。

ミニコンは、産業制御や通信制御の分野で活用されており、高橋会長も受託案件の一つとして、NHKの統一地方選挙用「選挙速報システム」を開発するプロジェクトにプロジェクトリーダーとして参画した。その内容は、投票データを全国のローカル局から東京・渋谷に設置されている米IBMのメインフレーム「IBM System/360」にオンラインで送って集計し、そのデータを放送局にあるミニコンに送り選挙速報装置に表示させるというものだった。

当時は、コンピュータメーカー各社が独自アーキテクチャーにこだわり、インターネットも全く普及していない完全なクローズドシステムの時代である。高橋会長は、この案件を通してIBMの通信テクノロジーを学び、その後もDECが開発したミニコン間のコンピューター間ネットワークである「DECnet」や、IBMメインフレームとミニコンを接続する通信ソフトの開発に数多く携わることとなった。

この通信テクノロジーとの出会いが、技術面で高橋会長の武器となり、後のインターコムを支えていく礎になる。

ただし、ユーザーが求めるソフトを愚直に淡々と開発する、それまでの仕事に面白みを感じることはなかったという。そのようなわだかまりを抱える中で、80年に開催されたビジネスショウで高橋会長は大きな衝撃を受けることになる。

「ある展示ブースに大勢の人だかりができていて、覗いてみると沖電気が『if800 model20』という日本初のオフィスパソコンを大々的に発表していた。CPU、キーボード、FDD、グラッフィックディスプレイ、カラープリンタを標準装備して約100万円という、当時としては驚異的な価格だった。それまで自分が扱っていたミニコンは、処理能力こそ違うがif800 model20とほぼ同じシステム構成で約1000万円。これからは、パソコンの時代になると確信した」(高橋会長)

わだかまりが焦りへと変わっていく中、コンピューター雑誌で、米国の小さなベンチャー企業の20代のエンジニア2人が、8ビットのパソコンとIBMのメインフレームを接続する企業向けの通信ソフトを商品化したというニュースを目にした。

そのとき、「このようなソフトなら自分でも作れる。今動くしかない」(高橋会長)と、ついに起業を決意。その1カ月後に、経理ができる友人を説き伏せて2人でパソコン向けの通信ソフトを開発するベンチャーを、東京・赤坂のTBSテレビ前に立地する雑居ビルの1室でスタートさせた。

起業はしたものの、まったくゼロからの製品開発であったため、資金はすぐに底をつき、身内や金融公庫からの借金でしのぐことになった。その後、前の会社の仲間たちが合流してきたが、自社製品が完成し売れるまで、なんと1年半もの間、社員全員が無給という状態が続いたという。

それでも誰1人として辞めず、ソフトが完成したあとの販売展開についての真面目な話から、儲かったら赤坂のクラブを全店舗制覇しようなどという話まで夜な夜な語り合い、1歩1歩しっかりとソフトの開発を進めながら苦しい先にぼんやりと見える明るい希望の光だけを見て乗り切った。

そして、ついに8ビットパソコン用の「CICS」「RJE」「BTAM」という3種類の通信ソフトが完成。その中で、IBMのプロトコルをサポートした「インテル8080」チップ用の通信ソフト(アセンブラ)「BTAM-80」がヒットした。「これが売れて助かった」と、当時を振り返り、高橋会長の顔はほころぶ。

助かったどころか、後はパソコンが進化し一般に普及していく流れについていくだけで、インターコムのパソコンソフトはどんどん売れた。その代表的なヒット商品が、「まいと~く」であった。