立川談志の弟子は、落語立川流創設の以前と以降で二分される。

立川流以降の弟子は、立川談志が協会を飛び出したために本来の修業場所である寄席に出られず、個別に売れる努力をしたグループ。全国区のマスメディアで通用するタレントになった立川志の輔がその筆頭である。以降、談春、志らく、少し飛んで談笑が、いわゆる「立川流四天王」と呼ばれるひとびとだ。現在の落語復興にもっとも貢献した落語家たちと言っていい。

対して立川流以前の弟子は、談志が協会を飛び出したことであまり恩恵を受けられなかったグループである。寄席という活動の場を奪われただけでなく、それまではなかった上納金制度は導入されるというまさに二重苦。弟子の中には談志を裏切って「脱北」した者もいる。だが談之助は、もともと寄席にはかけられない過激なネタが持ち味。兄弟子たちの窮状を尻目に、マイペースで活動を続けられた。

立川流設立当時は二つ目だったが、早く真打ちになれという師匠の言葉を仲間の快楽亭ブラックとともに固辞し続けた。真打ちになると上納金が増額されるからだ。あまりにも談之助とブラックが言うことを聞かないのに業を煮やした談志は、上納金の上限額廃止をちらつかせる最終通告に出た。当時上納金は合計280万円を納めると打ち止めになったが、真打ちにならない限り一生払い続けなければならないことになったのだ。泣く泣く2人は昇進したが、腹いせに支払額が280万円ぎりぎりになるまで真打ちにならなかった。

こうした具合に、立川流の良いところも悪いところも赤裸々に語った本である。そういう意味では盟友快楽亭ブラックの『立川談志の正体』と共通する部分がある。新作落語の世界で売れている、談志という名前に頼らなくても食っていける。そうした自負があるからだろう。サブカル関係の人々と交流を持ったことで、外部の視点を養ったという理由もあるはずだ。

1974年の入門で前座名を談Q。アルファベットの入った名前などそれ以前にはないから、寄席文字を書く橘右近師匠を苦らせた。入門して前座見習いだったころ、談志は参議院議員だった。談志の身の回りの世話をするため、本名角田博の談之助は談志の私設秘書となり、議員会館の通行証まで発行してもらった。それを入れた鞄を無くしたときは警備課でさんざん叱られたという。議員会館内へのフリーパスになってしまうのだから当然だ。警備課の担当者曰く。

「全く松岡先生の所は困りますね。そうでなとも先生の所に来る面会人はかゑる(柳家)とか毒蝮(三太夫)とかおかしな名前の人ばかりで…」