『りんごのうかの少女』

映画は、精神の気付け薬である。そうでなければ、このように目にも耳にも肌にも鮮やかな作品が存在するはずがない。

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『りんごのうかの少女』と題された42分の映像は、わたしたちの日常が、変わらないようでいて、いつも孤独な刷新を遂げているという真実を、明るみにする。いや、その真実は最初から何かでコーティングされていたわけではなかった。皮を剥く必要などどこにもない。がぶりとむしゃぶりつけばいい。そう、本作は、はなから剥き出しになっていた真実を、躊躇することなく、いきなり生(き)のままで味わいつくしていいのだと、教えてくれる。わたしたちは気づくことができる。これまでいかに、苛立ちや安堵や苦悩や幸せなど言葉にできないもろもろの感情に、わざわざ名前をつけて、その上っ面だけで自分を納得させていたのかということに。理由なんかない。理解なんていらない。ただ、それはある。そのことを肯定すれば、それでいい。

家があるのに家がないふりをしたい少女と、子を育てることと子が育つことのはざまで格闘する母親。ふたりの断絶と邂逅を、あらゆるお題目を乗り越えたオーガニックな出産方法で、この世界に「おはよう」と呼びかけるように、誕生させる。

りんごの赤が、農園の緑が、馬の茶色が、少女の髪の金色が、わたしたちの躰で眠っていた魂に火をつける。くすぶったままでいい、焦げるだけだっていい。たとえ、どんな結果になろうとも、命の炎には価値がある。そのことを、横浜聡子という監督は、一切の説明ぬきに提示し、黙って受けとめさせる。

抱きしめるのか、それとも、抱きしめられるのか。どちらでもいい。いや、どちらも同じことなのだ。わたしたちは、映画のなかで生きる人間たちを見届けることができる。そうすることで救われている。映画と観客はリバーシブルな関係だ。

全編、津軽弁で展開する。字幕スーパーなんて、ない。なぜなら、言霊に翻訳機能は必要ないからだ。

かぶりつけ。味をつけるな。わざわざ切るな。フォークや皿なんか用意するな。そのまま、だ。自分の人生を自分で食べろ。すべて、全部、生(ナマ)で、いけ。

『りんごのうかの少女』
公開中

文:相田冬二