「一緒に」が叶わない寂しさ

長く交際が続いているカップルや、落ち着いた結婚生活を送る夫婦の話を聞いていると、デートで行くお店を決めるときは「ふたりの満足が叶うところを話し合う」、「どちらかの気が進まないときは食事の仕方そのものを変える」など、「一緒に決める」が見えてきます。

パートナーが熱心に行きたいと思うお店に付き合うこともあるけれど、次は自分の興味があるお店に決めてもらうなど、尊重の形は「お互いさま」で片方に負担が偏りません。

相手の居心地のよさを把握しているのと同時に「自分もその時間を楽しみたい」と思うから、「あなたが決めていいよ」と任せきりにするのではなく「そこは◯◯が名物なのだね」と能動的に調べるような姿勢があります。

「合わせるのが愛情」と思っている人は、相手の気持ちに従うことに不満はない代わりに、「自分もその時間を楽しみたい気持ち」を伝えているでしょうか。

多く見聞きするのは「お店の場所も行き方も全部相手が把握して自分は聞くだけ」「自分は運転するだけ」など相手に引っ張ってもらっている状態。自分からお店や周囲の情報を知ろうとしないし「新しい提案」もありません。

合わせてもらっているはずの相手が不満を覚えるのは、「好きにしていいと言われたけれど、結局は全部こちらが決めないといけない」状態になるから。「たまにはそっちも」とお願いしたくなる、決める役割から逃れて「ラクをしたくなる」のは、決定のプレッシャーが大きいからです。

「一緒に決めたいのにな」と思っても相手がそれを放棄していれば、自分が行きたい店に足を向けても相手が楽しんでいるかどうかを気にすることもあるでしょう。

片思いでも交際中でも、食事や買い物など一緒に過ごす時間はかけがえのない大切なもの。

だから「ふたりで話し合って決めたい」と思うのは自然であって、これを「あなたの好きにしていいよ」で置かれてしまうと、相手の気持ちそのものに不安を感じます。

「合わせるのが愛情」と思っている側はそうする自分に違和感はなくても、相手が抱える「一緒に」が叶わない寂しさを解消することはできません。

ここで、「いつもこちらばかりが決めて大変だから、たまにはそっちが動いてよ」と言われたら「何でそんな言い方をするの」「いつも付き合ってあげているのに」など反発が生まれるようなら、その「合わせるのが愛情」は本当なのかどうか、疑問です。