アンソニー・チェン監督

シンガポールから届いた『イロイロ ぬくもりの記憶』は、東南アジアの作品としては異例の世界的成功を収めた1作だ。カンヌ映画祭のカメラドールをはじめ、国際映画祭で数々の受賞を重ねた同作は、現在まで世界30か国以上で公開が決定し、興行的にもヒットを記録している。手掛けたのは本作で長編デビューを飾ったアンソニー・チェン監督。まだ30歳の彼は今後の飛躍が期待される新鋭だ。

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世界の人々の心に届いた物語は、アジア通貨危機の影響下にあるシンガポールが舞台。まず監督はストーリーについてこう明かす。「脚本の出発点は僕の小学生のころの実体験。まさに1997年、私の父は失業し、そのころ、私の家庭にもフィリピン人のメイドがいました」

作品は、両親が共働きで忙しく、振り向いてほしいあまりに問題ばかり起こす少年のジャールーと、子供を置いてフィリピンから出稼ぎでやってきたメイド、テレサの交流を丹念に描出。シンガポールの国情をさりげなく背景にしのばせながら、登場人物たちの心模様を精緻描き出したドラマは、移民政策や経済危機といったグローバルな問題に鋭く迫る一方で、親の子への想い、友愛といった普遍的なテーマも浮かび上がる。「たとえば涙を誘うようなひとつの感情に訴えるだけではなく、観てくれた人の感性で様々な思考をめぐらせる作品を作りたいと思いました」

また、ひとつポイントとなるのが“悪者”が誰一人として登場しないこと。これにも理由がある。「当時もいまも、市井の人々はみんながんばって生きている。でも、それが報われることが少ない。それは取り巻く社会、それとも個人の問題なのか。答えは出ないかもしれないけど、そういう社会で懸命に生きている人の言葉にならない声というか、心の内を表現したい気持ちがありました」

デビュー作で大成功を収めると次の一歩がなかなか踏み出せない監督は少なくない。でも、彼は違うようだ。「かれこれ1年ぐらいこの作品のプロモーションにかかりっきりなんだけど、これほどの期間、自分が何も撮っていないのは初めてかもしれない。長編デビュー前はコンスタントに短編を作っていたからね。だから、いまは次に向かいたくてうずうずしているよ。映画を撮っていない自分はただの人で何の役にも立たないから(笑)。年が明けたらすぐにでも次回作にとりかかる予定だよ」

驚くべき完成度を誇る若き監督の記念すべき長編デビュー作にぜひ立ち会ってほしい。

『イロイロ ぬくもりの記憶』
12月13日(土)よりK's cinemaにて公開

取材・文・写真:水上 賢治