落語立川流初代家元・立川談志こと松岡克由が亡くなってからもうすでに半年が経過している。マスメディアの追悼特集ラッシュはさすがに収まったが、これからも追悼本の刊行は続くだろう。すでに弟子の立川志らく [http://ure.pia.co.jp/articles/-/4875] 、元弟子の快楽亭ブラック [http://ure.pia.co.jp/articles/-/3220] が著書を発表しているが、立川流顧問の一人である吉川潮が現在「新潮45」に談志の一代記を連載中だ。生前には毀誉褒貶が激しかった人だけに、複数の評伝が出るのは良いことだ。個人的には、若いころからの盟友である毒蝮三太夫、そして高田文夫の著書が出たら読んでみたい。

そもそも落語立川流がなぜ存在しているのか、理解していない人も世の中には多いはずだ。現在東京には4つの落語家団体がある。落語協会と落語芸術協会の2つが戦前から存在する老舗で、落語協会から1978年に飛び出したのが落語三遊協会(現在の円楽一門党)で、初代会長は6代目三遊亭円生だった。円生はその翌年に亡くなったが、同夜にジャイアントパンダのランランまで死んだせいで新聞の死亡記事の広告が小さくなってしまった。そして、1983年に立川談志がやはり落語協会を脱退して作ったのが落語立川流である。

立川流はあらゆる意味で従来の落語団体の常識を覆した団体だった。まず弟子から上納金をとる。落語界では師匠が弟子を見るのが当たり前で、その逆はありえなかった。批判された談志は「その質問を千宗室や花柳にも言ってみろ」と反論したという。たしかに踊りもお茶も、弟子が師匠に金を払う制度だ。そしてBコースと称して芸能人、Cコースと称して一般人を門下にとった。Bコースに当時話題のビートたけしが入門したことは、立川流の船出の追い風にもなった。

『立川流騒動記』は、立川談志の弟子である立川談之助が師匠、そして立川流の歴史を綴る本だ。談之助は1953年生まれ、物心ついたときからテレビがあった世代で、必然的にテレビっ子になった。古典落語から新作に転じ、三遊亭円丈が主宰していた実験落語会に参加、寄席では眉をひそめられるようなネタをかけて大いに受けたという。現在でもコミケに定期的にサークル参加するなど、現代と歩調を合わせ続けている落語家だ。