前田敦子はこれまで、「普遍的な器」には縁がなかった。

もちろん、このドラマは、前田敦子のために企画されたオリジナルなものである。だが、同時に、ある種の「器」としても成立する、幅広い可能性を有した「普遍的」なドラマでもあると思う。

家庭環境の不幸から、二股恋愛という前提条件をバリアのように己に施し、自分を護りながら生きてきた女が、二股というバリアを解除した途端に、丸裸になり(それが「せきらら」ということだろう)、ドツボにはまっていく(おそらく、そうなるはずだ)物語の展開は、筋が通っている。しかも主観ドラマ。大島のみならず、同じ年頃の他の女優が演じたら、どうなるのか観てみたくなる「器」なのだ。そして、前田はこれまで、そうした「普遍的な器」には縁がなかった。

よくわからない。素性は知れないが、確かに、そこに立っている。前田敦子には、そのような役が多かった。そして、そのような役を演じるとき、彼女の唯一無二の個性が発揮された。ドラマ『マジすか学園』から映画『イニシエーション・ラブ』へと至る約5年のキャリアのもっとも美しい成果は、「理屈を超えた存在感」にあった。

かつて、彼女の演技表現について「磨かなくてもそこに在る石」と評したことがある。何の変哲もない路上の石だが、つい目にとまってしまう。多くの者たちの演技は(とりわけ女優は)「磨かれた石」として提示されているが、前田のそれは一見、何もしていないように映る。なのに、つい気になってしまう。その、明らかに周囲から隔絶したありようが活きるのが、映画空間だった。前回、記したように映画は「日常」ではなく、「非日常」を志向するメディアだったからだ。

前田敦子はかつて、そのような役どころを、主に全身で表現していたように思う。だが、『毒島ゆり子のせきらら日記』は違う。顔で芝居を成立させている。
言うまでもなく、テレビは顔を映し切り取るメディアだ。

前述したように、前田の魅力は無表情を思わせる仏頂面にあった。そして、「ブス顔」とも形容されるこの優れた無表情にふさわしい役を、山下敦弘も黒沢清も用意してきた。

廣木隆一の『さよなら歌舞伎町』、そして沖田修一の『モヒカン故郷に帰る』から前田敦子の演技は明確に変化しつつあった。

 

『さよなら歌舞伎町』はグランドホテル形式の群像劇だったから、そこまで明瞭ではなかったが、妊婦を演じた『モヒカン故郷に帰る』では、明らかにキャラクタライズがおこなわれている。

 

「モヒカン故郷に帰る」 ©2016「モヒカン故郷に帰る」製作委員会

かつての前田が「どこにも属さない」アウトサイダーたちを演じていたとしたら、『モヒカン』の彼女はたとえば「ヤンキー」の一言である程度のカテゴライズができる(『もらとりあむタマ子』の主人公にもヤンキー的な体質はあったが、そこに留まらない底知れなさがあった)「どこかに属している」一般市民を演じていた。そして、『毒島ゆり子のせきらら日記』では、より共感度の高い人物像が形成されている。

そして、この人物像を、前田は百面相と呼んでいい多彩な顔面演技の数々で体現している。

愛する人とのふたりきりの時間を噛みしめるしあわせも、ふった男に哀願と共に詰め寄られそれでも「ごめんなさい」と伝える後ろめたさも、スクープをものにしたときの自分だけの高揚感も、高名な政治家とミラクルなアイコンタクトを成就したうれしさも、わずか数秒の「数枚」の顔面の推移によって、伝えてみせる。その様は、いい意味で漫画的な明快さがある。

これは、3話までのくだりに顕著だったが、自らをルールによって縛りつけることで逆に自身を保護していた主人公は、伏し目がちな表情を見せるたびに、「なにかが始まるということは、なにかが終わるということ」という恋の宿命を、観る者に感じさせてくれた。

ほんとうの恋をしたとき、ひとは、それまで己に課してきたルールを放棄するしかなくなる。
この真理を体現する前田敦子を見つめるということは、つまり、この女優の中でも「なにかが始まり、なにかが終わる」過程に遭遇することなのではないか。

『毒島ゆり子のせきらら日記』で、女優・前田敦子はそのキャリアにおいて、いよいよ「第二章」に突入した感がある。

ついに「両目に墨の入った」彼女の行方を、引き続き、追いかけていきたい。