戦争による中断をバネに、建立(こんりゅう)が再開された観音様

話を伺った松樹さん、会社に例えるなら総務部長といったところ

「当寺の観音様は、平和への思いが強いのが特徴です」と話すのは、大船観音寺の監寺、松樹泰弘(まつきやすひろ)さん。

同寺の住職は鶴見区の総持寺が兼ねているとのことで、監寺が実務上の責任者となる。

 
1934(昭和9)年当時の様子、輪郭だけができたまま放置されることに

まずは、過去の経緯から説明していただこう。

観音様建立の動きが始まったのは、1928(昭和4)年のこと。第一次世界大戦を終えたばかりの日本は不況にあえぎ、飢えに苦しむ人も少なくなかったという。そこで観音様の慈悲にあやかろうと、地元の有志が「護国大船観音建立会」を設立。

ところが、5年後の1934(昭和9)年には、物資不足などの影響で、築造が中断されてしまったそうである。

建立が再建されたのは、それから20年後の1954(昭和29)年になる。曹洞宗管長の高階瓏仙(たかしなろうせん)や東京急行電鉄の五島慶太(ごとうけいた)が中心となって、「財団法人大船観音協会」を設立。皮肉なことに、朝鮮戦争による特需が、平和のシンボルを再起動させたのだ。
 

見る角度によって、微妙に表情が異なる

最終的に観音様が完成したのは1960(昭和35)年、実に30年越しの祈願が、ここに達成された。

この段階では、いわゆる観光名所としての観音様だったが、その後1981(昭和56)年には「宗教法人大船観音寺」に改称、総持寺の系列を組む曹洞宗の仏閣となった。

松樹さんによれば、なぜ半身像となったのかは不明とのこと。「おそらくですが、山の上にありますので、万が一のことを考え、立像よりも末広がりで安定しているスタイルを採用したのでは」と話す。

こうした戦争に翻弄(ほんろう)された経緯もあり、大船の観音様は、特に戦没者の追悼という意味合いが強いという。その一例が、境内にある「原爆の火(原爆犠牲者慰霊碑)」である。

平和と子宝にご利益アリ、観音様の霊験

1945(昭和20)年、広島市に投下された原子爆弾。実は、その戦火を自分のカイロに移し、自宅へ持ち帰った方がいらっしゃったそうだ。

その貴重な火を受け継いでいるのが、同寺の「原爆犠牲者慰霊碑」。

向かって左側の石碑が慰霊碑
右側の灯籠には、本物の「原爆の火」がともる
 
「キャンドルナイト」の様子と、灯籠の現物

また、夏至や冬至の日前後に行われる「キャンドルナイト」というイベントでは、知的障害者の施設などで作られた紙コップ製の灯籠に「原爆の火」をともし、平和への祈りをささげるそうだ。

 
大切にされている「子育て地蔵尊」

では、一般の参拝者に向けたご利益などはあるのだろうか。

実は、節分会に登場したジャガー横田さん。長年不妊治療を続けていたのだが、ご主人の木下 博勝(きのしたひろかつ)さんが鎌倉女子大学の教授を務めていたこともあり、たまたま大船観音にお参りしたところ、見事に懐妊したという。

以来毎年欠かさず、息子さんとイベントに参加しているそうである。

また、これからの季節は、桜が見頃を迎えるとのこと。個人的には、初夏の藤棚もオススメだ。

では、いよいよ観音様の内部に入らせてもらうことに。