20代前半の俳優たちとのリクリエーションのスタイルで復活した『三月の5日間』
2003年3月、アメリカ軍がイラクに空爆を開始したその日を含む5日間の東京に住む若者たちの日常を描く『三月の5日間』。
本作は若者の喋り言葉をそのまま書き起こしたような戯曲と、それらの言葉によって引き起こされる過剰に誇張された身体の動きのスリリングな関係性でそれまでの劇構造を根本から覆した、若者たちに人気の演劇カンパニー「チェルフィッチュ」の代表作。
2005年には第49回岸田國士戯曲賞に輝き、2007年のクンステン・フェスティバル・デザール(ブリュッセル)での海外初演以降、世界30都市以上で上演を重ねているが、今回はチェルフィッチュの活動を記念して、20代前半の俳優たちとのリクリエーションのスタイルで復活!
しかも、現在上演中のKAAT神奈川芸術劇場を皮切りに、豊橋、京都、香川、名古屋、長野、山口の全国7都市公演を実施する。
そこで本作の作・演出を手がけた「チェルフィッチュ」の主宰・岡田利規さんにインタビュー!
再演への想いから演劇に対する考え方の変化、独自の演出法、『三月の5日間』の楽しみ方まで聞いちゃいました。
初演のこだわりは“役者の身体の動き”。でも今は、考え方が全然変わった。
――『三月の5日間』は2004年が初演ですけど、もともとこのお話はどんなところから生まれたのでしょうか?
岡田:2003年のイラク戦争開戦時に自分の中に生まれたささやかな感情を記録したいと思って、物語を作り始めたんです。
ささやかな感情というのは、すぐに終わるだろうと思っていた戦争が終わらなかったことに対する何とも言えない気持ちのことです。
ほうっておいたら絶対に忘れてしまうから、それを形にして残しておきたいと思ったんです。
――岡田さんは、自分が普段感じていることや日常の生活の中で疑問に思ったことから着想することが多いのですか?
岡田:多い気がします。オフィシャルな歴史は残るし、受け継がれていくけど、その状況に置かれていたときの自分が何を感じたり考えたりしていたのかというのは、そのオフィシャルなものとは違ったりずれていたりします。
それはささやかで、とるに足らないものかもしれないけれど、残したいと思うことがときどき起こってそうするとそれをいちばん強い動機にして作品をつくりますね。
――今回のチェルフィッチュの設立20周年の記念公演に、代表作の『三月の5日間』をリクリエーションというスタイルで上演しようと思われたのはどんな想いからですか?
岡田:“代表作だから”という意気込みはないです。『三月の5日間』を最初に作ったときといまの自分は全然違っていて。
年齢はもちろんだけど、自分の関心とか、演劇に対する考え方とか、演劇をやることで何を実現したいのか? とかそういうことが全然変わったので、いまの自分が作れば当然まったく違うものになるに決まっているわけです。
それを実現してみたい気持ちはありました。
――初演のときは30代でいまは40代ですけど、今回の再演では何がどんな風に変わりました?
岡田:台本以外はすべて変わったと思います。
――台本は初演のままなんですか?
岡田:セリフなどが書き変わっているところもありますが、台本が持っている大事な構造やいちばん重要な骨格みたいなものは変えてないです。なので、僕はまったく変わってないと思っています。
――時代性みたいなものは意識されなかったんですか? いまは2017年だからこの設定はこういうふうに変えようといった……。
岡田:2017年に上演すれば、その演劇は2017年のものになります。台本を変える必要はないし、そもそも変えられません。
――では、台本以外のところは具体的にどんなふうに変わったのでしょう?
岡田:すべてですが、例えば、初演のときは登場人物7人の内訳が男5、女2だったのが、今回は女5、男2になってます。
――そうなった理由は?
岡田:オーディションでいいなと思った人を素直に選んでいったら自然とそうなりました。でもこれは俳優のジェンダー(男女の性区別)とか気にしないで上演できる演目なんです。
役者と役の関係は自由だというコンセプトで書かれているので。
――演出面で変わったところは?
岡田:初演のときに僕がいちばん重要だと思っていたのは、役者の身体の動きだったんですね。
僕が演劇的だと思う面白い身体の動きを提示して、それを舞台上に乗せることを第一に考えていたんです。
でも、いまは、舞台上で行われるパフォーマンスは、それを観る観客の中に何かを見出すための“現象”だと思ってます。そんなふうに演劇に対する考え方が全然変わっているので、全然違う上演になりました。
――初演のときはすべての役者が、軟体動物のような奇妙な動きをしながらセリフを言っていましたが、あれがなくなってしまったのですか?
岡田:そこに最大の興味を置いて作っているわけではない、というだけで、なくなったのかもしれませんし、あるのかもしれません。
僕はもうそこには興味がないから、よく分かりませんね。