北条義時役の小栗旬 (C)NHK

 「向こうは天下の鎌倉殿。源氏の棟梁。武士の頂におられるお方。どうあがいても太刀打ちできる相手ではない。あらがっても結局は言いなり。言われるがままに非道なことをしている己が情けない」

 NHKで好評放送中の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。5月29日放送の第21回「仏の眼差し」で主人公・北条義時(小栗旬)が主君・源頼朝(大泉洋)との関係について、妻の八重(新垣結衣)に、己の非力さを嘆いたシーンだ。

 これまで何度かその指示に疑問を感じて抵抗したことはあるものの、基本的には頼朝に従ってきた義時がこんな本音を口にするのは珍しい。

 とはいえ、奥州の藤原氏を陥れて源義経(菅田将暉)を討たせた第20回のように、このところ少しずつ変化が現れているのも事実。小栗自身も先日当サイトに掲載されたインタビューで「義時自身が考え、行動していく瞬間が次第に増えていきます」と語っている。

 そこで、間もなく後半戦を迎えるこの機会に、主人公としての北条義時について考えてみたい。

 ここまで本作を見てきて、ずっと不思議に思っていたことがある。大河ドラマの主人公には、「世の中を変える」、「自分の夢を実現する」という大志や野心を抱いて突き進むイメージがあるが、義時には少なくともここまでそういう感じはない。どちらかというと、与えられた仕事をそつなくこなす「仕事のできる普通の人」といった印象だ。

 この点に関しては、小栗自身も前述のインタビューで「(義時は)心の奥底には常に『早く伊豆に帰って米の勘定をしたい』という思いがあり、それが一番の楽しみのような人ですから(笑)」と語っていた。やはり根は“普通の人”なのだ。

 しかも、周囲にはわがままな主君・頼朝を始め、“戦(いくさ)ばか”の義経(前回亡くなったが)や、友情よりも損得を優先しがちな盟友・三浦義村(山本耕史)、“脳みそ筋肉”のような和田義盛(横田栄司)など、強烈な個性の持ち主がぞろぞろいる。ごく平凡な義時は、その中に埋没してもおかしくない。

 にもかかわらず、義時には主人公として見る者を引き付ける力がある。もちろん、脚本が義時を中心に書かれているからなのだが、それだけでは「魅力のない主人公」になってしまう恐れもある。だが、義時はそうなってはいない。では、“普通の人”義時が見る者を引き付ける理由とは何なのか。

 それを考え続けていたところ、思わぬところにヒントがあった。それが、5月3日に放送された「プロフェッショナル 仕事の流儀 小栗旬スペシャル」だ。義時役に挑む小栗に長期間密着したドキュメンタリーで、番組中、密着しているディレクターに向かって小栗がこんな言葉を発したのだ。

 「なぜここに俺がいるのか。分からんもん」

 これを聞いてハッとした。まさに、自ら望んでいなかったものの、最終的に鎌倉幕府最高権力者の座に就く義時が口にしそうな言葉だと思ったからだ。期せずしてそれを、俳優なら誰もが憧れる大河ドラマ主演という大役を手にした小栗が、自身の言葉として語る。筆者の中で、2人が重なった瞬間だった。

 さらに同番組では、小栗がスタッフ全員の名前を覚えようとしたり、共演者に気遣いを見せる様子も収められていたが、劇中でも義時は、会議の場で他の出席者に声をかける姿が何度となく描かれ、“気配りのできる人”という印象がある。

 八重役の新垣も、当サイトのインタビューで「周りをよく見て、いろいろと気に掛けてくださる方です。その印象は以前も今も変わりません」と小栗の人柄について証言している。

 つまり、義時には小栗自身の人柄がにじみ出ており、われわれはそれを見ていると考えられる。それこそが、義時がわれわれを魅了する主人公として真ん中に立っている理由ではないだろうか。脚本の三谷幸喜は“当て書き”をすることでも知られることから、この考えはあながち間違っていないように思う。

 となると、“普通の人”から徐々に権力者への階段を上っていく義時の変化を、小栗がこれからどう表現し、どんな義時が出来上がっていくのか。想像するといろいろな妄想も膨らむが、毎回予想を覆す物語同様、その行方を期待とともに見守っていきたい。

(井上健一)