【東京・豊島区発】能や狂言といった伝統芸能は、一般の人たちにとっていささかハードルが高い印象がある。けれども石井さんが所属する野村万蔵家は能楽堂での自主公演のほか、学校での狂言教室やワークショップなどを数多く開催し、狂言ファンのすそ野を広げる努力をしている。若手中心の狂言会では29歳以下の割引制度を導入したり、狂言師のイラスト(前号コラム参照)を漫画家の東村アキコさんに描いてもらったりするなど、若年層に積極的にアピールしているのだ。近い将来、狂言界のアイドルが生まれるであろうか。
(本紙主幹・奥田芳恵)
言葉も動きも難しすぎて
稽古に飽きることなどない
芳恵 石井さんはご自身がお稽古好きゆえに、狂言の世界が自分に合っているとおっしゃいました。愚問かもしれませんが、毎日お稽古を繰り返す中で、飽きてしまうようなことはないのですか。
石井 まず、狂言は、言葉も身体の動かし方もすごく難しいということがあります。私には何人か先輩がいるのですが、師匠の野村万蔵先生の20代の息子さんたち3人は、3、4歳のときに初舞台を踏んで、普通の言葉とともに狂言の言葉も学んできています。「それがしは」とか「〇〇でござる」といった言葉を幼い頃から耳に入れているわけですね。もちろん、当時から足袋を履いて能舞台で稽古を積んでいるので、身体にその動きが染みついています。
それに対して、私は44歳からのスタートですから、一生懸命稽古しないと大変なことになりますし、その難しさゆえに飽きるということはありません。
芳恵 物心つかない時期から狂言の世界に生きている師匠のご子息とは、経験も環境もまったく異なりますものね。
石井 私たちの和泉流には古典の演目が250ほどあるのですが、登場人物は2人ないし3人のものが多いため、少なく見積もっても500以上の役があります。だから、今の私はほとんどが初役です。
芳恵 言葉にしても身体の動きにしても、覚えることが無限にありそうです。
石井 そうです。ですから飽きているひまがないんですよ(笑)。一つの役を演じたと思ったら、すぐに次の役の稽古が始まります。だから、毎回緊張の連続ですね。あと面白いのが、初役の場合はもちろん先生から教わった型の「まね」をして演じるわけですが、同じ演目を1年後にやると、ちょっと違う感じになるんですよ。
芳恵 それはなぜですか。
石井 その1年の間にほかのいろいろな役を演じるわけですが、その演じてきたことの経験が、同じ役でも初役のときとは異なる雰囲気を醸し出すのだと思います。ですから、初役でなくても相手役も違いますし毎回新鮮ですね。
芳恵 伝統芸能の深みを感じるお話ですね。最初はまねから入ることはよくわかるのですが、狂言では、個性とかオリジナリティというものについてはどう捉えられているのでしょうか。
石井 私は入門するまで20年以上お笑いの世界にいたわけですが、そのときはとにかく前に出て、無理やりにでも自分の個性を押し出そうとしていました。ですから、狂言の世界に入門してからも、そういう部分、つまり自分らしさを出そうとしてしまいがちだったのです。
それを見抜いた万蔵先生は、「自分から個性を出さないでいい。古典には型があるから、まずしっかり自分を型にはめてみろ」と。そして、「型にはめて、それでも型からはみ出るのが個性だから」とおっしゃったんです。
芳恵 「型からはみ出るのが個性」というのは、とても納得感があります。
石井 私はこう見えてとても素直な性格なので(笑)。それから先生の言葉を信じて、自分を出すのではなく、教えられた通りの型をしっかりやってみたら、自分から個性を出さなくてもご覧になった方から「石井ちゃんらしかったよ」と言ってもらえるようになりました。
芳恵 まさに、個性が自然にはみ出たのですね。
石井 この経験は、自分にとってとても大きいものでしたね。
世界中の子どもたちに
狂言の楽しさを知ってもらいたい
芳恵 石井さんは入門されて5年目に能楽協会の会員になられたわけですが、やはりそのくらい修行しないとプロとして認められないということですか。
石井 これは流派や家によっても異なると思うので、一概には言えません。私の場合は、昨年の夏から約半年間、先生に稽古をつけていただき、今年1月に国立能楽堂で行われた披(ひらき)の会で、「奈須与市語(なすのよいちのかたり)」という一人語りの演目を披かせていただきました。披きというのは修行の節目で大曲を初演することで、これが大過なくできたと認められれば、能楽協会に推薦していただき、入会、つまりプロの狂言師になることができます。
芳恵 狂言師になられて、どんな苦労がありましたか。
石井 稽古の厳しさは覚悟していましたが、それ以外の部分で失敗してしまったり、怒られたりしたことは何度もありました。代々伝わってきた貴重で高価な装束や道具の扱いが雑になってしまったとき、とても厳しく叱られました。でも、そういうことは実際に叱られないと、その重要さがわからないものです。
それから、舞台で山伏の役を演じていたときに、相手役が頭に巻いていた鉢巻が取れたことがありました。私はコントや演劇の経験上、それを自然の流れの中で拾って巻き直したら、終演後、すごい勢いで先輩方に叱られたのです。私が直したことは型にはないことだったからです。本来は、舞台の後ろに紋付袴を着て控えている後見(こうけん)が直すしきたりだったのですが、私はこの失敗をするまでそれを知らなかったというわけです。
もう一つ驚いたことといえば、狂言師自身が装束をそろえて能楽堂まで運び、狂言師同士で装束付けをし、装束の簡単な修繕まで行うということでした。もちろん、終演後には装束を稽古場に持ち帰り、きれいに畳んでしまうのも狂言師の仕事なんです。
芳恵 稽古以外のところでも、いろいろな役割があるのですね。
石井 そうですね。そうした仕事を覚えるのにはけっこう苦労しましたし、今でも苦労しています。でも、最近は裁縫をするのが楽しくなってきて、趣味になりつつありますね(笑)。
芳恵 今後、どのような狂言師になっていきたいと思われますか。
石井 お笑い芸人から狂言師になった人はあまりいないと思いますので、そうした私の特性を生かして、狂言を身近に感じてもらい、観ていただける機会を増やしていければと思っています。もちろん、野村万蔵家の一員として守り伝えることは大切にしなければなりませんし、まだまだひよっこの身、もっと研鑽しなければならないと考えています。
今、いろいろな地域の小中学校を回って狂言教室を行っているのですが、初めて狂言を観た子どもたちが喜んでいる姿を見るのがとても楽しいです。全国の子どもたち、いや世界中の子どもたちに狂言の楽しさを感じてもらいたいですね。
芳恵 今も昔も、みんなを笑顔にするお仕事を選ばれたのですね。ますますのご活躍、楽しみにしております。
こぼれ話
「足のサイズを教えてください」。取材前にこんなメールをいただいた。もちろん初めての質問である。お稽古場には白足袋で上がる必要があるとのことで、サイズを教えていただければお貸しますという気遣いのメールだった。早速、しまい込んでいた足袋を引っ張り出して家で履いてみた。洋服に足袋。ちょっと違和感があるけどOK! 神聖な舞台に上がらせていただくのだから、大変貴重でありがたいお話である。バッグに足袋を入れて、ワクワクしながら和泉流野村万蔵家の稽古場「よろづ舞台」へと向かった。とても暑い日だったが、「道がわかりにくいから」と、石井康太さんがわざわざ最寄りのコンビニまで迎えに来てくださった。その温かいお人柄に触れ、取材前の緊張がほぐれていくのを感じた。
石井さんの軽妙な語り口で繰り広げられるトークショー。終始、笑いに包まれた対談であった。お笑いの世界で鍛えられた、エンターテイナーとしての顔がのぞく。芸能の世界に身を置いているのは、家族、親戚を見渡しても誰もおらず、石井さんだけなのだそう。身近にはいなかったけれど、テレビの影響を強く受けたとのことであった。石井さんは、“真面目なサラリーマン”であるお父様を見て、ちょっとつまらなく感じていた時期もあったとか。しかし、「コツコツ稽古に取り組むことができているのは、父親の姿を見てきたからかもしれない。そうかー、似たのかぁ」と、少し驚いた表情でしみじみ語った。
取材を終えると、「ちょっと練習してみましょうか」と石井さん。膝と足首をやや曲げて腰を低くおろし、腰の位置を変えずにすり足をする。少しすり足をしただけで、下半身がぷるぷる震えてくる。すぐにギブアップ。ここにさまざまな動作が加わるのだから、なんと体力がいることか。
石井さんは「すり足体験会」も行うなど、狂言の世界に触れてもらうきっかけをつくっている。30カ国以上に行ったことがあるというそのバイタリティーで、日本だけでなく全世界へ狂言の魅力を伝えてくれることだろう。オールドルーキーへの期待が募る。(奥田芳恵)
心にく人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
<1000分の第359回(下)>
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。