2024. 11.1/東京都国立市の一橋大学国立キャンパスにて

【東京・国立市発】アスリートから研究への道にかじを切った清水氏。その後も続いた波乱の出来事を周囲の人たちの協力を得て乗り越えてきたという。国内外の研究拠点を渡り歩いてきた清水氏がたどり着いたのは、人が変化するのには「捨てること」が欠かせないという考えなのだという。

(本紙主幹・奥田芳恵)

2024. 11.1/東京都国立市の一橋大学国立キャンパスにて

波乱万丈の私生活にあって全力で支えてくれた人たち

芳恵 民間企業でも活躍しておられます。

清水 試練が重なった時期です。まず東京工業大学の博士課程の入学式を迎える前日に、母が脳出血で倒れてしまって。その後、母の介護をしていた父ががんになり、半年後に亡くなりました。それで日本不動産研究所に就職しました。旧大蔵省、建設省、国土庁、自治省の財団法人です。そこで国土庁と連携して地価の予測や、日本IBMやゼンリンと、AIで土地価格を算出するという共同研究をしました。道路や鉄道といった社会資本整備の経済効果をビッグデータで測定する、という仕事もあって、その一つが神戸の地下鉄海岸線の開発効果の測定だったんですが、神戸市役所との打ち合わせに出向いていたとき、大震災に遭遇し、そこから急に復興事業にも参加しました。

芳恵 それは急展開ですね。

清水 かなりハードでしたが、人生を見直す良い機会になりました。人生を見直す機会って、生きているといくつかあると思うんです。私の場合、次には家族にがんが見つかったり、子どもに移植手術が必要になったりで、また人生の見直しです。

芳恵 そこで決断されたことは?

清水 東京大学の大学院で博士論文の指導をしてくださった西村清彦先生(元日本銀行副総裁)のご紹介でリクルートに移りました。働き方が自由なスペシャリスト職の第2号として研究所の設立と、西村先生のご友人で南カリフォルニア大学の准教授だったヨンヘン・デン先生のリサーチ・アシスタントをする機会もいただきました。

その後は、麗澤大学に統計学のポストがあるからどうかということで、麗澤大学の准教授になりました。学園の中に幼稚園があるので育児と両立できますし。

子どもと向き合うために休職期間を海外で過ごす

芳恵 困難と思われる中でも、歩みを止めず進んで来られたように思います。その後、海外へ行かれたのですね。

清水 末っ子は生まれてすぐに手術だったり、私が家族の介護に追われていたりで、ゆっくり向き合ったことがなかったんです。それでサバティカル(長期休暇)制度を使い、末っ子を連れてカナダのブリティッシュコロンビア大学に行きました。彼が小学校4年から6年生の間ですね。上の子はすでに麗澤大学の付属で寮がある中学校に進学していました。

芳恵 現地とは何かつながりがあったのですか。

清水 当時、リーマン・ショックから世界的な金融危機が起きて、「不動産価格指数作成指針」を国連、OECD、IMFといった国際機関が共同整備することが決まりました。そのキックオフとしてスイスで国連の専門家会議があり、講演をしたところ高評価で、私も作成指針のチームに入ることになったんです。そこで編集責任者だったブリティッシュコロンビア大学のアーウィン・ディーワート教授と出会い、客員教授としてブリティッシュコロンビア大学に招へいしてくださった、という経緯です。

芳恵 お仕事を通じてたくさんの機会と出会いを引き寄せていますね。その後は?

清水 デン先生がシンガポール国立大学の学部長になられた時にお声がけがあり、3年間、統計分析の講義を担当しました。次は日本大学がスポーツ科学部を設立するので文科省の認可を取る協力と、設立から6年間統計学の講義、あとは、東大のある恩師から「不動産情報科学研究部門」をつくるための協力のご依頼で、日大教授との併任で東大の特任教授、というかたちで3年間お手伝いしました。すべては育てていただいた先生方、母校への恩返しです。

芳恵 一橋大学へはどういったご縁でしょうか。

清水 人生も終盤かな、と思っていた時に、一橋大学も新しい学部をつくるというのでお声がかかりました。東大や一橋大学では、どちらかというと若手の育成に専念しています。後継者の育成は研究者の大きな仕事です。すでに8人が私の研究室から巣立って大学で教壇に立っています。

芳恵 素晴らしいことです。

清水 あ、これ自慢なんですが、実は全部の大学に、今もご縁が残っているんです。麗澤大学では非常勤ですが学長補佐をしていますし、日大では大学院の非常勤講師、ブリティッシュコロンビア大学も、来年また客員教授として招待いただいています。シンガポール国立大学は年に数回、一橋大学と合同で学会を開いています。

良き師を選びそのパートナーとなること

芳恵 学生さんたちに伝えていることは?

清水 良き師を選べ、ということです。先生というのは与えられるものではなくて自分で選ぶもので、かつ先生に「この子を育てたい」と思わせることです。「成長は素直さに比例」します。一方で私たちも、その人の能力というより志の正しさで、育ててみたい、一緒に仕事をしたいと思うかどうかが大切ですね。

私自身も良い先生と巡り会えたことで大きく変わりました。あと、いつまでも師匠と弟子の関係ではダメで、平等な研究者になっていかないといけない。私自身、パートナーの関係にはなれなかった先生もいて、すると関係って途絶えてしまうんです。

芳恵 師弟関係からパートナーへは難しいことでは?

清水 近道はありません。私もご一緒した先生の仕事を発展させて、国際学術誌に70本近い論文を書いてきました。教え子たちは、私の積み上げの上にさらに積んでいって、私よりも高いところに行くのが仕事です。決して難しいことではありません。大切なのは、「善きこと」「善き研究課題を選ぶこと」です。

芳恵 善きこととは、具体的には何でしょう。

清水 ビッグ・ピクチャーは要らなくて、社会を正しく見つめる力です。こんな面白いデータが手に入ったから面白い論文が書けるのでは?みたいな発想を持つ子は多い。それで論文を書けば、学者としての評価は上がるかもしれませんが、誰かを幸せにするものではない。人間社会を良くするために深く洞察するもの、人間社会の課題にアプローチする研究こそ必要です。

「捨てる」ことで変化した今後は未知の経験をしたい

芳恵 今の研究が一段落したら、次はどんなことを考えておられますか。

清水 うーん…研究者としては引退でしょうね。で、自分の人生の中で唯一やってこなかったことに興味があるんです。「遊び」です。中高とテニス一色でしたし、その後は勉強や研究一色で、遊ぶっていうことをやってこなかったなあと思っていて。

芳恵 遊ぶという未知の経験ですか。 

清水 人間というものは、どうしても過去にしがみついちゃうんですね。でも何かにしがみつくと、ほかのことがまったく見えなくなって変われなくなってしまう。私の場合、テニスを強制的に捨てさせられたことで、新しい自分に出会うことができた。だから、父が「勉強はやってこなかったんだから勉強をしてみたらどうだ?」と言ったように、遊びをしてみたらどうだ?と自分に問いかけています。すると、自分が好きなテニスや研究をしていた時分と違ったことで社会貢献ができるんじゃないかなと思ったりしているんです。

芳恵 本日はありがとうございました。

こぼれ話

西洋風の庭園に丸いアーチと重厚な外観の建物。一橋大学の国立キャンパスは、統一的な建物で調和が図られ、荘厳な景色が広がる。ゆっくりとした時の流れの中で、心地よい秋の風情を感じながらキャンパス内を散策すると、まるで中世ヨーロッパにタイムスリップしたかのようだ。

ぐぐっと現代に感覚を引き戻して、清水千弘先生との対談を始める。テニスをやるために選んだ日本大学から経済学者の道に進んでいくという異色のストーリー。そして、私生活でさまざまな試練が重なった間につかんできた出会いとキャリア。エピソード満載で、必然的に会話のスピードが速くなる。

「成長は素直さに比例する」と清水先生はおっしゃる。まさにご自身にも当てはまるのではないだろうか。選択の余地なく入ることになったゼミで計量経済学に出会い、修士課程、博士課程へととんとん拍子で進んでいく。相当の勉強量ではあったと推察するが、スポンジのごとく吸収していかれたであろう姿を想像する。大切なことの多くはテニスを通して学んできたという清水先生。経済学者への道を考えれば遠回りのようなテニス人生も、大切な要素だったのではないか。

取材後、ブリティッシュコロンビア大学時代の恩師アーウィン・ディーワート氏と会うとのことで、一緒に待ち合わせ場所に向かった。恩師の唱える数式の間違いを指摘し続けた若き日の清水さんと、それを真摯に受け止めたディーワート氏。お二人の笑顔を見て、師弟関係からパートナーとなり、良好な関係が築かれていることが伺えた。お互いに尊敬の念を抱いているからこそパートナーになれる。会社においても、仕事を通して先輩がパートナーに変わっていくくらい、深い信頼関係を構築できたらとても素晴らしいことだし、そのほうが楽しい。いきいきと活動される清水先生の姿がそれを物語っている。

(奥田芳恵)

心にく人生の匠たち

「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

<1000分の第362回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。