踏切寺が長閑だったころ

今でこそ京急が最高時速120kmでぶっ飛ばす「踏切寺」だが、先代住職が子どもだった当時は、走るのはまだ路面電車のような車両で、もちろん速度もだいぶ遅かった。誰かが戸板に物を載せて踏切を渡っているようなときには電車のほうが止まるなど、踏切に人がいたら電車が減速するのどかな時代だったという。

笠䅣(かさのぎ)神社前も、かつて遮断機もない踏切だった(提供:小野和伸氏)

現在の笠䅣神社前トンネル
 

以前取材した神奈川新町近くの笠䅣(かさのぎ)神社前も、かつて遮断機もない踏切だった。

写真を見てみると、笠䅣神社も「踏切神社」だったことがわかるが、笠䅣神社前は低い築堤(ちくてい)がつくられたため、京急に嘆願して神社の手前を低く掘り下げ、トンネルを通すことで「踏切神社」状態は解消している。

笠䅣神社前の遮断機のない踏切は、通行人が左右を見て自分のタイミングで渡っていたというが、遍照院前の踏切もかつてはその状態に近かったのだ。

山本住職が子どものころも踏切はまた手動だったが、戦後、電車の最高時速が80km、90km、100km、と段階的に上がり、1967(昭和42)年には105kmが運輸省に認可されたため、遍照院が京急に嘆願して、生麦第4踏切は昭和50年代にようやく電動踏切に変更されたそうだ。ちなみに時速120kmが認可されたのは1995(平成7)年である。

一時は線路の高架化の話も出たというが、話は進展しないまま、新子安駅の上に産業道路が通ってしまっていて、現在ではもう不可能である。

「寺院は古くからその場所にあり、敷地も広いことが多いから、鉄道が敷設されるときに線路に面していたり、土地を提供したりするようなことは多いんですよ」と山本住職は言う。「鎌倉市腰越の満福寺なんかもそうでしょう。まあ、江ノ電と京急じゃスピードがちがいますけどね。昔の京急が江ノ電くらいの感じだったと考えると、開通時の様子に近いかもしれません」

なるほど、そうだとすれば風情がある光景にも思えてくる。現在のような大迫力踏切通過は、もともとは路面電車から始まった京急と遍照院の背後を走るJRとの終わりなきデッドヒートが生み出したものといえそうだ。

山門の内側から眺めると、門が遮眼帯の役割を果たし迫力が増す
振り返ると、本堂の裏手を京浜東北線と東海道線が走り抜ける
 

京急の2014(平成26)年カレンダーの6月のページに、「踏切寺」として遍照院が写っていることを檀家さんから聞いて驚いたという山本住職だが、「踏切寺」と呼ばれ、鉄道ファンなどから注目されていることについては、特別気に留めてはいないという。

また、撮影目的で遍照院を訪れる人に対しても、お寺の宿命として「どういったことが目的であっても拒むわけではない」と考えているとのこと。かつては花月園競輪で負けた人が助けを求めて来ることもあったそうで、すべての人に門戸を開いた地域に根ざした古刹である。

 

なぜここに線路が

さて、話を聞かせていただいた部屋には、1999(平成11)年撮影の航空写真が2枚、飾ってあった。

中央に見える茶色い屋根が遍照院本堂
もう1枚に映った遍照院。JRと京急にはさまれている様子がよくわかる
 
上の写真からかつての寺院敷地を想像すると概ねこんな感じか
雨で濡れているとわかりにくいが、晴れているとバラスト(線路の道床)も赤い。
 
現在の屋根瓦は、樹脂を吹き付けてあり鉄粉が付着しにくくなっている

本堂の屋根が赤茶けているのは、線路から鉄粉が飛んでくるためだという。鉄粉は車にも飛んでくるそうで、騒音は屋内に入っていればそれほど気にならないので、鉄粉のほうが困りものだとのこと。

さて、こうなってくると、問題は、なぜこのルートで線路が敷かれたのかということになるが、それについては『京浜電気鉄道沿革史』の記述がヒントになるだろう。

川崎~神奈川間に先がけて川崎六郷橋~品川延長線の工事開始に際し、京浜電気鉄道は当初、軌道を国道(第一京浜)上に敷設する計画だったが、地域住民や競合する人力車夫、乗合馬車業者などから猛烈な反対にあった。

その結果、鉄道敷設の特許命令書には「両側連簷(れんえん:軒(のき)が連なること)の場所は道路幅員七間以上其の他の場所は六間以上を要し、狭き所は擴築(かくちく)の上敷設すべし」と定められた。

つまり、国道沿いの家屋が並ぶ場所では道路幅は7間(約12.7メートル)、それ以外の場所は6間(約10.9メートル)を必要とする、それに満たない道幅のところは拡張工事をすること、というのが鉄道敷設の条件だったのである。