ちなみに、遍照院の前を通る第一京浜は「今日工業地になっている殷賑区域も、当時は一望の田野の間に所々部落が介在し、或は僅かの宿場をなしていたに過ぎなかった(『京浜電気鉄道沿革史』)」ため、上述のような条件となったのだが、用地買収交渉に要する時間と、拡張工事にかかる莫大な費用を賄う資力が不足していた京浜電気鉄道は、1901(明治34)年5月、拡張工事に10年間の猶予を願い出て、1902(明治35)年3月、許可を取得した。
ここからわかることは、当初の計画では、線路は第一京浜上に敷設することになっていたのであり、この計画のまま進めば、遍照院は「踏切寺」になることはなかったということだ。
ところが、「種々調査の結果、同年五月国道拡築を止めて新設専用軌道に依る事に設計を変更し、同丗七年一月に至り工事施工許可を申請した。(中略)翌明治丗八年三月、工事施工認可を得た(明治35年5月に当初の予定を変更しその内容を明治37年に申請、明治38年に工事施工認可がおりた)」ことで、状況は大きく変わる。
「種々調査」の内容は記述がないためわからないが、用地買収と道路拡張工事よりも、鉄道敷設に必要な用地買収だけのほうが費用を抑えることができる、と考えたかのかもしれない。
さて、そうなると「新設専用軌道」はどこに敷設するのか、ということになるが、国道の北側はすでに国鉄が走り、そのさらに北側は丘陵地など鉄道工事には不向きな地形、南側はすぐ海が広がっている。
となると、国鉄と国道の隙間を縫うようなルートしかなかったのだろう。
そして、この隙間ルート計画が提出されると、鉄道事業に周辺住民が協力し、もちろん遍照院も協力し、その結果「踏切寺」が生まれた、と考えることができそうだ。1905(明治38)年3月に工事施工認可を得て4月13日起工、同年12月17日に竣工、12月24日に川崎~神奈川間が開通していることから、工事が迅速に進められたことがうかがえる。
ちなみに、第一京浜上には1928(昭和3)年6月1日に横浜市電生麦線が開通、「遍照院前」という停留所もつくられた。
取材を終えて
「踏切寺」こと遍照院の山門は、1786(天明6)年、1868(明治元)年の2度の火災を耐え、震災や空襲にも耐え、250年間同じ場所で、時代の変化を見守り続けている。
遍照院は、2008(平成20)年に創建550年を迎えた古刹である。「踏切寺」を撮影するときは、赤い電車の背後にある山門に染み込んだ歴史と趣にもピントを合わせてみてはいかがだろうか。
参考文献
『京浜電気鉄道沿革史』杉本貫一編/京浜急行電鉄株式会社 /1949
『横浜市史稿 仏寺編』横浜市役所編・発行/1931
『京急ダイヤ100年史』吉本尚著/電気車研究会/1999
『詳説日本史図録(第3版)』詳説日本史図録編集委員会編/山川出版社発行/2010
「天皇系図」宮内庁
遍照院
住所/横浜市神奈川区子安通3-382
※本記事は2014年7月の「はまれぽ」記事を再掲載したものです。