歴史あるお寺で吹奏楽を学んだサツマバンド
1869(明治2)年、鹿児島湾に停泊していたイギリスの軍艦から聞こえる軍楽隊の音楽に薩摩藩主、島津久光が感銘を受け、薩摩藩に軍楽隊を作ることを決意したことから、日本の吹奏楽の歴史がはじまる。
軍楽隊とは軍隊に属する音楽隊。野外で演奏することが多いため、管楽器と打楽器を中心にした吹奏楽の編成を持ち、式典や行事などでマーチを中心に幅広い音楽を演奏する。
薩摩藩は、指導をイギリス軍に要請。そして、指導者に選ばれたのは、横浜に駐留していたイギリス第十連隊第一大隊のジョン・ウィリアム・フェントン軍楽長だった。
薩摩藩は藩士32名を「薩摩藩洋楽伝習生」として横浜に派遣することになり、イギリス軍の駐留地に近い妙香寺が、洋楽伝習生たちの寝泊りと練習の場所となった。
初代『君が代』と現在のものはまったく異なる!?
練習を重ねた薩摩藩洋楽伝習生は翌年の1870(明治3)年、フェントンの指揮のもと、妙香寺の隣にある山手公園の演奏会に出演。
当時、横浜に居住する外国人向けの新聞『ザ・ファー・イースト』は、妙香寺境内に整列した薩摩藩洋楽伝習生の写真を、「サツマバンド」として紹介した。
サツマバンドについてこの新聞は、楽譜の読み書きもすでにマスターし、短期間にマーチを演奏できるほどになったとその才能をほめ、容貌もすぐれていて利発そうだと記している。
長い歴史を誇る妙香寺に、洋装で整列する薩摩藩洋楽伝習生たち。この画像は、横浜開港資料館のサイトにあるキッズページ内「文明開化をのぞいてみれば・・・」コーナーの「山手居留地 山手公園・妙香寺」で見ることができる。
初代『君が代』のメロディは讃美歌風
薩摩藩洋楽伝習生への指導がはじまる時、フェントンは日本に国歌があるなら、その作譜から指導をはじめようと提言したが、その時点で日本には国歌がなかった。
薩摩藩洋楽伝習生の穎川吉次郎(えがわきちじろう)が、当時薩摩藩の砲兵隊長であった大山巌(おおやまいわお)にそれを伝えたことから、『君が代』が誕生したと伝わっている。
大山巌は西郷隆盛の従兄弟で明治の元老(明治時代の重要な政治的案件の決定に参与した政治家)。折しもこのころ、イギリスの王子、エジンバラ公の来日があり、儀礼に演奏する日本の国歌の必要性が高まっていた。
国歌という概念にはじめて触れた大山巌を代表とする薩摩藩士たちは、日本にも国歌を作ろうと検討をはじめ、 古今和歌集に記載され、おめでたい歌として小唄、長唄から浄瑠璃でも幅広く親しまれている『君が代』を歌詞として選ぶ。
『君が代』は薩摩琵琶歌にもあり、それが大山巌の愛唱歌だったと伝えられている。
この歌詞に合わせた作曲を依頼されたフェントンは、讃美歌風のメロディを作成。
1870(明治3)年には、この『君が代』がはじめて演奏された。
しかし、この初代『君が代』は美しいメロディだが歌詞と合わず歌いにくかったこと、西洋音楽がまだ一般的ではなかったことから作曲し直されることとなる。
新しい曲は宮内省(宮内庁の前身)により雅楽調に作曲し直され、フェントンの後任であるドイツ人のエッケルトが吹奏楽用に編曲を行った。
これが現在の『君が代』となる。
フェントンが作曲した初代の『君が代』は、こうして姿を消す。