『毒島ゆり子のせきらら日記』第5話を観て思った。
ついに、女優・前田敦子という「ダルマ」に目が入ったのではないか?
このドラマに「ダルマ」がイメージとしてインサートされたり、具体的な小道具として配置されてきたのは、つまり、こういう宣言だったのではないか?
前田敦子に、目を入れます
思えば、前田敦子は女優としてずっと「片目」だったのかもしれない。
そもそも、『毒島ゆり子のせきらら日記』というタイトルが非常に示唆的、批評的だ。
毒島と書いて「ブスジマ」と読む。前田と言えばドラマ『Q10』共演者たちといまだに集まる「ブス会」が有名だし、その無表情にも映る仏頂面は(多くの場合)愛をこめて「ブス」と形容されてきた。
「ブスジマ」という音の苗字の選択がいかなる意図によるものかは不明だが、こうした前田のある種のパブリックイメージを逆手にとった発想もあるのではないか。劇中では、可愛いともてはやされる一方、「あんた、ブスね」と言われるシーンもある。
そしてこれはたまたまの一致にすぎず、深読みしすぎかもしれないが、「ブスジマユリコ」の音の印象は「オオシマユウコ」によく似ている。
そう、AKB48時代、人気を二分した大島優子である。前田の後に卒業し、前田同様、現在は女優としての活動がメインになっている大島は、かつてもいまも、前田とは対照的な資質の持ち主である。
取るに足らない妄想だが、たとえば、『毒島ゆり子のせきらら日記』は大島優子主演でも成立するかもしれない。大島は前田に較べてはるかに(特にドラマでは)、役どころとして「普通」のヒロインがフィットする。前回指摘した通り、毒島ゆり子は「普通」の女の子である。そして、前田は(特に映画では)「普通」の役がほとんどなかった。
いま一度、『マジすか学園』第1シリーズを振り返ってみよう。
謎の無敵転校生「前田敦子」は学園にはびこる不良生徒たちを次々に倒し、ついにラスボス「大島優子」と相見えることになる。病に倒れ、既に闘える状態ではなかった「大島優子」はけれども、多くの部下たち(もちろん、当時のAKB48主要メンバーたちが演じている)に慕われ、支えられる任侠の女だった。任侠の女。そう、真っ当なドラマツルギーを成立させ、多くの観客の共感を得る「普通」のキャラクターである。ところが、「前田敦子」はその強さの背景がほぼ不明で、ほとんど理由もなく強い、そして孤独という役どころだった。
任侠の女。これほど前田にふさわしくない役もないだろう。
大島は任侠の女を演じることができるが、前田には難しい。前田はこれまで(映画にしろ、ドラマにしろ、舞台にしろ)観客の共感とは別な場所で、その演技表現を繰り広げてきたし、それが彼女の個性だったからだ。
だが、よく新人の演じ手たちが常套句のように用いる「どんな役でもこなせる」役者など、ほとんどいない。器用に見えるベテランにしても、与えられたある一定のポジションの中で、その都度役の種別を変幻させているにすぎなく、基本的には「その人にあった」役を、「その人ならでは」の方法で演じているだけなのだ。その幅がある人は広く見えたり、見えなかったりするだけのことだ。
だから、当たり前のことだが、大島優子は大島優子にできることをしているし、前田敦子は前田敦子にできることをしている。それが、彼女たちそれぞれの表現としての個性になっているのだ。
たとえば、『もらとりあむタマ子』に主演している大島優子はまるで想像できない。あるいは、ドラマ『安堂ロイド』に登場している前田敦子はありえないだろうと思う。
ところが、ここがこのドラマのすごいところなのだが、『毒島ゆり子のせきらら日記』に主演している大島優子の姿はなんとなくイメージできるのだ。そして、大島なら別なかたちで、このヒロインに説得力を持たせるのではないだろうかと考えることができる。