音楽の在り方について考える。3月11日以降、音楽の必要性とともに、音楽の無力さをも痛感させられている。それでも、心が動揺しているなかで、部屋に音楽が鳴っていたことが、自分を確かにしたことは事実だ。あのとき不謹慎だからといって遠慮していたら、ずいぶんずっと苦しかったと思う。不安で押し潰されそうなのは変わらないとしても。
うつくしきひかり、というユニットのことを知ったのは震災から1か月程度経ったころ。ザ・なつやすみバンドのなかがわりさがピアノとボーカルを、おなじくザ・なつやすみバンドのほか、ceroや片想い、チークタイム温度などなどで、スティールパンやトランペット、マンドリンなどさまざまな楽器を持ち替えて活躍するMC.sirafuがスティールパンを担当する2人組。
ザ・なつやすみバンド「せかいの車窓から」
このままNHK「みんなのうた」で流れてもなんら違和感ないポップソング!演奏してるひさまがほんと楽しそうでいいなぁ。
ザ・なつやすみバンド「自転車」
グッドミュージック!スティールパンからトランペットに楽器を持ち変えるシラフさん!
cero / 大停電の夜に
2011年の街と景色を一新するナイスシティポップス!PVの幻想的な映像も美しい。
片想い「踊る理由」
音楽が鳴っている幸せを体現している素晴らしい映像。名曲。泣ける。ゲストボーカルにceroの髙城さんが!
ザ・なつやすみバンドでみられる、なかがわりさ/MC.sirafu両氏の豊かなソングライティングはうつくしきひかりでも惜しみなく発揮されていて、ザ・なつやすみバンドがより大衆にひらかれた「NHKみんなのうた」のようなポップスだとしたら、うつくしきひかりはより心の奥行を灯す癒しのようなポップス。言葉のひとつひとつがメロディとなり、やわらかなピアノの響きに呼応するようにスティールパンが向き合い、ゆっくりとタペストリーを織りながら空へ舞い、空気に還るような、純粋で誠実な音楽。「20世紀最後にして最大のアコースティック楽器発明」と言われている打楽器スティールパンの、自然との調和があまりにも美しく、雨上がりの緑の萌えるなかで、山の上の畑がひしめくなかで、知らない街をひとり歩いているなかで、そして自宅で眠りに落ちる直前に、うつくしきひかりを聴くと、わたしは、木々が、実りの穂が、虫や鳥が、周りの空気が、自分の生を祝福しているような光に包まれる。悲しみも不運も苦痛もいっぱいあるけど、生きているということその奇跡を、ただ信じていいのだ、という気持ちになる。うつくしきひかりの音楽は、ともすれば、たったふたりで、世界に向かって喜びを鳴らしている感謝のような、祈りに満ちた音楽だ。
うつくしきひかり 「ともだちを待っている」
お寺の本堂で行われた彼らのライブを観た。風が通り過ぎる音を聞きながら、子供たちがはしゃぐ声を聞きながら、虫たちが鳴らす羽音を聞きながら、自由な振る舞いでともに紡がれていく彼らの音楽は、音楽だけでなく、音楽とともにある生活を、世界が生きる音を、じんわりと運んできた。それは、いわゆるライブハウスで見るよりも、ずっとずっと、音楽の存在感を表現していたと思う。
うつくしきひかりが、ある老人ホームでライブを行なった。お誕生日を迎える入居者のための、お誕生日演奏会だ。なかには103歳を迎えるご年配が2人もいらっしゃるという。始まる前から「今日はここで何があるのかしら?」とニコニコ聞いてくるおばあちゃんに「音楽の演奏会がありますよ」と伝える。「あら、そう!」とうれしそうにし、また数分後に「今日はここで何があるのかしら?」としゃべっているおばあちゃん。都度、職員さんが「音楽の演奏会がありますよ」と伝えている。うれしそうでかわいい。わくわくを匂わせて会場がつくられてく。入居者の方々が集まってくる。杖をつきながら、手押し車を押しながら、なかには車椅子を押されながら、会場にたくさんの人が集まってくる。
「これはスティールパンという楽器で、日本の楽器ではなくって、トリニダード・トバゴという国で生まれた楽器です。もともとはドラム缶で、こうして叩くと、心地いい音色がします。晴れた日に森のなかで聴いているような気持ちになってくれたらいいと思います」
シラフさんのアナウンスにピアノがつづく。スティールパンが音階をなぞる。体を揺らすひと、手を叩くひと、目を瞑って聴き入るひと、目頭をおさえるひと、「僕たちの音楽は眠くなるので、そのときは寝ていただけたらいいと思います」というシラフさんの言葉通り、みんなが好き好きに音楽を感じているのがわかる。「大きな古時計」や「カチューシャの唄」のカバーが演奏されると、そこここで合唱が起こる。演奏が終わると、「まだ演奏して!」とリクエストが入る。音楽は、みんなにきちんと鳴っているのだなぁと思う。それは、途中で退場してしまったひとに対しても。日曜日の昼下がり。くもり。窓から入ってくる光と、おびただしい鳥の鳴き声、ピアノと歌、スティールパンの音色。存在する要素が万華鏡のように反射して振動する。まるで地球の息吹を体感しているような気分になる。音楽が、命の全部に自由に降り注いでいる。
最後の最後、アンコールで演奏された「ふるさと」。1番が終わって、ピアノの間奏のところで、誰かが間違えて2番を歌い出す。なかがわさんがはっとした顔をする。わたしは「あ、間違った!」と思った。でも、その歌につられて他のひとが歌い出す。その歌につられて、声が増える。声に導かれて、歌はどんどん大きくなる。間違いで始まった歌が、大きな渦になるさまを見ていて私は、間違いだと思ったことを恥じた。音楽が生まれる衝動に間違いなどあるものか。そもそもスティールパンという楽器は、ドラムを禁じられた黒人奴隷が、それでも音を鳴らすためにドラム缶で発明した楽器だ。いつも、いつの時代も、音楽は、禁じられても、鳴ってきた。時に魂の解放を促し、時に反抗の手段として、時に心地よさを与え、時に商業として、音楽は鳴りつづけている。
演奏が終わり、集まってきたひとたちが帰っていく。スティールパンに興味津々で、実際に手で触れていくひと、丁寧に「今日はありがとうございました。楽しかったです」と私たちにも挨拶をしてくださる方、先ほどのおばあちゃんは、またニコニコしながら「今日はここで何があるのかしら?」と聞いてくる。「何もありませんよ」と職員さんが答えると、「あらそう…」と悲しそうな顔になってしまった。
「前もってお伝えしていても忘れちゃうから、いつも直前に【これから演奏会ですよ】とか【これから運動会ですよ】とか伝えるんです」と、職員さんがおっしゃっていた。なるほど、と思う。すでにさっきの合唱は、みんなの心の中からなくなっているのかもしれない。音楽はきれいさっぱり消えているのかもしれない。それでも、あの瞬間にみんなが歌っていたことは事実だし、歌いたいという衝動に突き動かされたのも事実だろうし、うつくしきひかりの音楽によって私たちが共鳴し合ったのも事実だ。私は思う。音楽の在り方を考えるだなんて、自分は奢っていたんじゃないだろうか。3月11日以前から、音楽はただ鳴っている。3月11日以降も、それは変わらない。必要性も無力さも超えて、音楽は鳴りつづける。そのとき音楽はさまざまな感情を心にもたらす。その数分間を、わたしは奇跡と呼びたい。今日見た景色は、まさにその証明のように思う。
うつくしきひかり@老人ホーム
●うつくしきひかりライブ予定
11月13日(日)
場所 大阪南船場 地下一階の四階
時間 OPEN/START 15:00
料金 前売/当日 1800円
出演 うつくしきひかり/森山ふとし/DODDODO/DJ腹八分(DJごはん&栗原ペダル)
11月14日(月)
場所 神戸 旧グッゲンハイム邸
時間 OPEN 19:30/START 20:00
料金 前売/当日 2000円
出演 うつくしきひかり/たゆたう
音響:西川文章
共催:塩屋音楽会
12月4日(日)
「yojikとwanda うつくしきひかり ツーマンライブ」
場所 下北沢 lete
時間 OPEN 19:00/START 20:00
料金 約2000円+drink 当日2300円+drink
出演 yojikとwanda/うつくしきひかり