いまの草彅に漂う「妖気」のようなもの

それにしても。彼は、いつの間に、ここまでの俳優になっていたのだろう。

わたしは映画『任侠ヘルパー』と、スペシャルドラマ『スペシャリスト』四部作もノベライズする幸運に恵まれている。いずれも、それほど、前のことではない。だが、いまの草彅には、この2作からは感じなかった「妖気」のようなものが漂っている。そして、それは、復讐者である一ノ瀬浩一のキャラクターだけによるものではない。

復讐者と言えば『中学生円山』が想起される。あのときの草彅も確かにすごかった。ただ、主人公はあくまでも少年であり、草彅扮する男も、少年の目を通して語られる間接的な存在だった。こうした構造を受けて、草彅はあくまで抽象的な芝居に留めていたし、それゆえ、たっぷり用意された「余白」が、イマジネーションをかき立ててくれた。

だが、『嘘の戦争』は、言ってみれば、毎回毎回、エピソードごとに、誰かに復讐を果たす=血祭りにあげる物語である。殺したり、暴力をふるったりはしないが、「騙す」ことで、社会性を根こそぎ奪い取る。たとえば、性癖という恥部を晒す。悪評が立つことこそ、現代における「抹殺」だ。不寛容な社会において、一度「殺された」者の再起は難しい。

ノベライズを綴りながら、主人公、浩一の精神状態にどこか近づきがたいものを感じていた。近づきがたい、というのは、理解したふりができないということである。家族3人を惨殺した犯人たち、そこに関わった者全員に復讐をする。理屈としてはわかる。だが、その「抹殺」行為を、ここまで持続できるのはなぜだろう? わたしはそのことに悩みながら、執筆を続けた。結果、かなりの難産になった。

2話以降を目の当たりにすることは、どこか「答え合わせ」に近いことだった。自分は浩一をあんなふうに描写したが、はたしてそれで良かったのだろうか? それは読者の方が判断することなので、ここでは記さない。

胸の隅にいつまでも残る、浩一の「視線」

9話まで観て思うのは、草彅は一ノ瀬浩一を、あるルールの下に演じてはないということだった。

一貫性に縛られていない。見るたびに、そこから受け取る人物の肌触りが異なる。接している相手によって、印象が違う。

詐欺師だから、常に騙している、自分というものを潜めている、ということではない。逆だ。どれも、浩一の真実を示している。逆に言えば、ひとりの人間には、これほど、様々な顔があるのだということが、そこでは証明されていた。そのことに驚かされた。

特に凄いのは目だ。ベッドに横たわり、身動きできずにいる者(市村正親)を射る「狩人」のように冷静かつ激烈な目。眼球から放たれる光はブルーそのものだが、眼球の奥底に熱い何かが煮えたぎっている。この冷水と熱湯がかき混ぜられることなく、そこにあるような眼差しを、浩一という男の必然として、画面に定着させている。

あるいは相棒(水原希子)の思いのこもった告白を、受けとめるでもなく、受けとめないでもない、厚みのある「素っ気なさ」で一瞥する、イマジネイティヴな余裕。ごく一瞬のことだが、その視線が、こちらの胸の隅に、いつまでも残る。