ドラマ『嘘の戦争』を観て思う。いまの草彅剛はもはや名優と呼んでもまったく大げさではない演技力と存在感を有していると。
わたしは本作のノベライズを手がけた。つまり一風変わった関わり方をしている。だが、それ以外は普通の視聴者と何ら変わることはない。一般の方と異なる点は、執筆する関係上、脚本は既に最終回まで読んでいることだ。
この作品の草彅の素晴らしさはもういろいろなところで語り尽くされているような気がしないでもない。だが、ノベライザー(わたしの本業は、映画やドラマを小説化することである。年に一作ぐらいしか書けてはいなのだが)だから書けることもあるかもしれない。その観点からトライしてみよう。
『嘘の戦争』で表出した「草彅剛にしかできないこと」
ノベライズ執筆は初回が放映される前に着手している。そうでなければ、スケジュール的に間に合わない。連続ドラマをノベライズする場合は大抵そうである。映画とは違って、ラストがどうなるかわからないまま書き進めていく。最終話の台本の到着を待っていては、やはりスケジュール的に本が出せないのだ。そういう意味では、視聴者と変わらない。
初回の放映を観たのは、執筆的に折り返す前(全10話なので、5話以前)だが、その後は意図的に、観なかった。すべてを脱稿してから、追いかけるように観ていった。
連ドラをノベライズするときは大抵そうだ。初回だけは執筆中に観る。だが、その後の回は最後の1行を書ききるまでは観ない。
なぜか。
役者の迫力に呑まれてしまうからである。
とりわけ『嘘の戦争』の草彅剛は半端なかった。これ以上観てしまったら、おそらく自分のノベライズは、あの吸引力に引き摺られて、崩壊してしまう。その危険を感じた。
文字にできることと、映像にできることは、まるで違う。その面白さに魅せられて、わたしはノベライズを自身のライフワークと定めている(もちろん、今後、オファーがあるかどうかはわからないのだが)。だが、『嘘の戦争』の草彅を見つめていると、映像にしかできないことを、うっかり文章でやろうとしてしまう危険性を感じた。これはヤバい、と。
より正確に言えば、それは「映像にしかできないこと」ではない。「草彅剛にしかできないこと」である。