「キムタク」とは、「“男の子”の理想」の姿である

昨年の『27時間テレビ』で木村は「キムタク」とはまた違う「人間・木村拓哉」をわずかだがのぞかせていた。その上で、すぐに「キムタク」に戻る、という高度な使い分けを駆使していた。

たとえば水泳大会で芸人相手に無様な負け姿を晒した。一方ですぐに「キムタク」になりきり、誰よりも早く潔く負けを認め、カッコよく土下座を決める。

あるいは、「弱ったり、ヘコんだり、それこそぶっ倒れそうになることってあるんですか」という問いに「全然ありますね。うん。あります」と人間臭い答えをしたかと思うと、その直後に「意識的に見せないようにしてるんですか」と尋ねられると「だって、見せる必要もないし、うん。そこは誰も求めてないと思う」と自らが考える「キムタク」像をハッキリと答えている。

木村自身が書いているように「“キムタク”は公共物」、即ち「相手がいて初めて成立する」ものなのだ。

自分が何を求められているのか。
木村拓哉はそのことに誰よりも敏感だ。だからこそ、20年以上にわたってトップアイドルであり続けられるのだろう。

たとえば自らのエッセイでの言葉「SMAPは『思い出をつくる特殊部隊』」の真意を尋ねられ、木村はこう答えている。

「そう、それだってウチらだけでは成立しないですよ。決して6人だけの、5人だけのメモリーじゃないんです」(『週刊SPA!』2014年7月22・29日号)

ここで「5人」ではなく、最初に「6人」とあえてファンが望むような言い間違え(言うまでもなく元メンバーの森を想起させる言葉だ)をするのが木村拓哉なのだ。

カッコイイ。見ていて照れくさくなるほど決まっている。カッコイイを体現するあまり失笑を買うことさえあるくらいだ。

「キムタク」とは、いわば「“男の子”の理想」の姿である。憧れ、そのものだ。その時代、年代ごとのカッコイイ指針のような存在だ。

男子なら誰もが「キムタク」になりたいと思っている。けれど、現実ではなれないから、別の道を模索するしかない。ついでに悔しいから「キムタク(笑)」なんて半笑いで揶揄したりする。それはきっとこちらが恥ずかしくなってしまうほど恥ずかしげもなくカッコイイ、木村拓哉へのカッコ悪い照れ隠しだ。

木村拓哉は、その「キムタク」という生き方から逃げなかった。