2021.2.17/東京都品川区の日立大森第二別館にて

【東京・大森発】私が20代の頃、取材でよく訪問していた日立の大森第二別館に久しぶりに足を踏み入れた。その懐かしいオフィスで今回お会いしたのは、日立システムズでCTOを務める赤津雅晴さんだ。もちろん頭脳明晰で、いささか早口なタイプだが、相手の理解度を慮ってお話ししてくださる。温かみがあるのだ。エリート研究者であることは間違いないが、どこかひと味違う……。そんなことを思っていたら、いつの間にか『論語』や儒教についての話に発展していった。

(本紙主幹・奥田喜久男)

理論を究めるのではなく

世の中の役に立つ学問をしたい

昨年来のコロナ禍の下、この対談企画ではデジタル環境での「明日」を語れる方にお会いしたいと考えるようになりました。そこで今回は、経産省のDX研究会などでもご活躍の赤津さんに、ぜひお話をうかがいたいと思った次第です。

それはありがとうございます。

これからの社会についてうかがう前に、ご自身のいまに至るまでの歩みについてお話しいただけますか。

中学生の頃から数学が得意でした。変な話ですが、私は中1のときに将来は東大に入ろうと決意したんです。

それはなぜですか。

私の父親は茨城の田舎で育ったのですが、成績が学年トップだったにもかかわらず、家が貧乏だったため中卒で丁稚奉公に出されました。それだけに、自分の息子には勉強させたいという思いが強く、それが私に伝わったというわけです。

お父さんの悔しさを肌で感じて、自分は勉強しなければと……。

そうですね。ただ、わが家には私立学校に通う経済的余裕はなかったため、都立高校から東大の理科一類に進みました。

それも立派ですね。

ところが、大学には数学を究めたいという意気込みで入ったのですが、周りはとんでもない秀才だらけで、数学の授業もあまり面白くなかったんです。そこで、理論を究めるよりは世の中の役に立つ学問をしたいと、実際に数学の知識を活用できる計数工学科に進みました。

赤津さんにとって、得意な道は好きな道につながったのでしょうか。

どうでしょうか。「好きこそものの上手なれ」という言葉もありますし、私の大好きな『論語』に「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」という言葉があります。これは私の若い頃の人生訓で、物事を知っている人もそれが好きな人にはかなわないし、それが好きな人はそれを楽しむ人にかなわないという意味ですが、何をするにしても楽しむことを忘れないようにとずっと思っていました。

なるほど。若い頃から『論語』に親しんでこられたわけですね。そのほかには、どんな本を読んでこられましたか。

世代によって読むものの嗜好は変わってきましたが、一番好きなのは太宰治です。大学に入ってからは、名作といわれる小説は片っ端から読みました。社会人になってからは、小説よりもドラッカーなどの経営書にシフトしましたが……。

日立の「和」の精神は

議論を尽くした末に生まれるもの

ご自身の考え方や人格形成に影響を与える本はありましたか。

一番影響を受けたのは、戦前の哲学者であり教育者である森信三先生の『修身教授録』です。大阪天王寺師範学校での教員志望の学生に向けた講義録で、人生や生き方についての教えに満ちており、いまも私の座右の書になっています。

その本と出会ったのはいつ頃のことですか。

30代ですね。

30代になると、人格という面ではほぼ固まってきますよね。

そうですね。でも、歳とともに変わっていく部分もあります。例えば、先ほどの『論語』の話にしても、20代、30代の頃は先ほどご紹介した言葉が好きだったのですが、40代、50代になると「位(くらい)なきことを患(うれ)えず、立つ由縁を患う。己を知ること莫(な)きを患えず、知らるべきことを為すを求む」という言葉を好むようになりました。若いときは誰もが出世欲を抱くものですが、この言葉によって出世することは本来の目的ではなく、それにふさわしい人になることが大事であるということに気づかされました。

何か理系の研究者と話しているようには思えなくなってきました(笑)。ところで、私はこれまでいろいろな企業の方とお会いしてきましたが、日立製作所という会社は、次期社長レースとか派閥争いといったことで、あまり“揉めない”会社だというイメージがあります。

そうですね。私もこの社風が好きなのですが、日立創業の精神として「和」「誠」「開拓者精神」というものがあります。このうち「和」と「誠」は、儒教の精神とも通じていると思うのです。これは創業者である小平浪平の儒教的な考え方が現代まで受け継がれ、こうした社風を形成していると私は解釈しているんです。

小平さんのお墓は谷中霊園にありますが、他の実業家に比べてとても質素ですね。

そうですか。それも儒教の影響かもしれませんね。それに小平(おだいら)は、子孫や自身の関係者を決して日立に入社させませんでした。

ただ「和」が重んじられるといっても、それは単に仲良くするということではなく、技術者同士、上司も部下もなく、侃々諤々の議論を戦わせた末に方針が決まったら、一致団結してやっていこうという「和」なのです。お互いに言いたいことを言って納得できているから、あとあと変な争いにならないのだと思います。

赤津さんも侃々諤々の議論をした口ですか。

20代の頃は、上司に突っかかってばかりでしたね。自分が上司だったら、こんなイヤな奴と仕事をしたくないというようなタイプです(笑)。でも、ぶつかっていっても、上司は受け止めてくれるんですね。

若い生意気な部下でも、尊重してくれると。

「若造が何を言ってるんだ!」というのではなく、ちゃんと議論に乗ってくれるのです。考えが浅い部分もありましたが、私も間違ったことを言っているわけではないので、上司や先輩たちは「面白いことを言うやつだな」というくらいの度量を見せてくれていたのですね。

赤津さんの研究テーマは、どのようなものだったのですか。

私は約20年間の研究者生活を送ったのですが、最初の10年間はシステムの研究、次の10年間はサービスの研究をしました。

サービスの研究ですか。

情報システムサービスの価値を、どのように評価するかという研究です。積算方式による金額換算ではなく、顧客にどれだけの価値をもたらしたかということを測定しようとしたのです。最初は周囲になかなか理解されず、ひとりで細々とやっていましたが、その後、当社でシステムの企画から運用まですべてを請け負う「戦略アウトソーシング事業」が始まると、その研究が必要と認められ、50人のメンバーを擁する部に成長したんです。

ひとりから50人ですか。それはすごい!

(つづく)

研究所の部下から贈られた写真立て

2007年、赤津さんが初めて部長を務めたシステム開発研究所第五部を異動で離れる際に、部下の皆さんから送られたもの。このとき赤津さんは、人に恵まれたおかげでここまでやってこられたと実感したという。まさに、ビジネスマン人生の節目を思い起こさせる大切な品といえるだろう。

心に響く人生の匠たち

「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。