
【秋葉原発】昨年6月にインターコムの社長に就任した須藤さんは、努力の人であり、自分に対して妥協を許さないタイプとお見受けした。だからこそ現在の立場を築き上げたといえるが、お話をうかがっていると、それだけではない要素が浮かび上がる。それは、人との出会いである。「偶然」という言葉だけでは片づけられない出会いや縁や言葉が、人生の転換点で大きく作用しているように思える。それもまた、ご自身の生き方に呼応した「必然」なのかもしれない。
(本紙主幹・奥田喜久男)
厳しい生育環境の中で
生まれた自立心
須藤さんが社長に就任されて間もなく1年になりますが、もう慣れましたか。
そうですね。昨年の2月に内示があり、3月下旬に社内発表、6月の株主総会で選任されたのですが、発表されるまでは落ちつかない時間を過ごしました。でも、いったん社長としての実務が始まってしまうと、それまでのドキドキ感はなくなりましたね。
走り出したらドキドキしているヒマなどない、と……。ところで、社長就任にあたって、何か覚悟というか心構えのようなものを持たれましたか。
すぐ「カッ」としないように、と思いました。
えっ、カッとしないように?
カッとして、とんでもないことを言わないように、常に落ち着いて振る舞おうということですね。社員はみんな、私の性格を知っていますけど……。
ご自身から見て、どんな性格なのですか。
心のうちにとどめておけないというか、思ったらすぐに口にしてしまうタイプですね。「これをやりたいんだけど、どう思う?」というように積極的に周囲を巻き込む部分は長所であると思うのですが、例えばミスした人に対して大声で怒ったりして、後でひどいことを言ってしまったなと後悔することもあるんです。けっこう攻撃的なんですね(笑)。
その性格は、若い頃から?
小さな頃は、部屋の隅で一人で本を読んでいるような内向的で気難しいタイプでした。未熟児一歩手前で生まれ、泣いてばかりの子どもだったので、母も育てにくかったと思います。
それはちょっと意外ですね。では、いつ頃からその性格が変わってきたのですか。
変わったのは20歳くらいですね。実は、私が5歳のときに父が亡くなり、母と妹との3人暮らしだったのですが、そうした家庭の事情を含め、生活環境は自分にとってあまりいいものではなかったんです。そんなこともあって、かつては「頑張れば必ず成し遂げられる」というような考え方に懐疑的で、斜に構えていたところがありましたね。
高校時代、2年間ほどおばの家で生活していたのですが、この時期に「しっかりと自分の力で生きていこう」という思いを抱いたことが、自分が変わっていったきっかけなのだと思います。
厳しい環境の中で、自立心が芽生えたと。
高校に入ってからはアルバイトをするようになり、自分でお金を稼げるようになったことも大きかったと思います。学費は全部自分で賄いました。母からお小遣いをもらったのは、中学生まででしたね。
それは、それは……。
お嬢様のようなOLから
プログラマーに転身
高校卒業後は、どんな道をたどられたのですか。
経済的な理由もあり、もともと大学に進学する気はあまりなかったので、“ちゃんとした”就職をしなければと、証券会社に入社しました。
ちゃんとした就職?
ちゃんとしたというのは、親が喜んでくれるようなという意味です。そういう会社なら、どこでもいいと思っていました。証券会社は、大発会の日に女性社員は着物を着るようなお嬢様っぽい職場だったので、母は喜んでくれましたね。
なるほど、お母さん思いなのですね。でもなぜその華やかなOL生活から、いまの仕事にシフトされたのですか。
その母が、私が21歳のとき、急に亡くなってしまったからなんです。
それはまた、早い……。
当時、妹はまだ高校生で、私が勤めていた証券会社のお給料はとても安かったんです。母を喜ばすために、お嬢様みたいなOLを演じてきたわけですが、もうそんなことをする必要はありません。そこで転職を考えるのですが、いまさら教師にも医師にもなれないと思い、ならばカタカナの職業に就こうと思いました。そこで「そうだ、プログラマーになろう」と。
「簡単な英語で、編み物をするように何かをつくる仕事」だと聞き、それなら私にもできるかもしれないと思い、ある方の紹介で小さなソフト会社に入りました。
IT業界との初めての接点ですね。言語は何でしたか。
COBOLです。その会社は受託や派遣が多いのですが、そこでいろいろと教えてもらい、私は青山にあった住友銀行(当時)で大型機のソフト開発の一部を担当しました。ところが、入社して1年ほどで、私は会社を辞めてしまったのです。不景気のせいで、人の配置に無理があったことがその原因でした。
たった1年で?
はい。それでもっと大きなソフト会社を受けて採用が決まり、もういまの会社を安心して辞められると思ったとき、先に辞めていた仲の良い女性の先輩にそのことを報告しました。ところが、内定した会社が載っている就職情報誌を見せると、パラパラとページをめくりながら意外なことを言うんです。「あなた、この会社も受けてみなさいよ。ここにOSって書いてある、アセンブラって書いてある。これが大事なのよ」と。その会社がインターコムだったんです。
ほう、その先輩に見る目があったのですね。
ところが、先に内定した会社はとても立派で、それと比べるとインターコムは「大丈夫かな」と。私は安定を求めて転職しようとしているのに、と思いましたね。
でも、インターコムを訪ねると、ソフトをパソコンで開発しており、とても面白そうでした。それまで私が大型機をやっていたため、自分たち(インターコム)が開発している大型機のターミナルエミュレーターを試しにさわってみてくれって言われました。面接もそこそこに……。(笑)。
創業何年目の入社ですか。
インターコムは1982年6月の創業で、私の入社が84年9月ですから3年目に入ったところですね。私の社員番号は19番ですが、それまで優秀な人もたくさん来たのにうまく人が採用できなかったそうです。それで「未経験でもいい、女性でもいい」と、このとき女性ばかり4人が採用されたのです。
「女性でもいい」なんて、失礼だなぁ。
(つづく)
かけがえのない友が
遺してくれた指輪
昨年の夏、須藤さんは社長就任の翌日、親友を病気で亡くした。18歳のときに出会い、折にふれ、悩みをお互いに相談しあい、海外旅行に一緒に行ったりするような仲だった。須藤さんの左手の中指に光るのは、その10歳年上の親友が「私が死んだら彼女は必ず来てくれるから、そのときにこれを渡して」と親族に託したダイヤの指輪だ。形見分けというよりは、頑張って社長になった須藤さんへのプレゼントに違いない。以来、毎日一緒だ。
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。