2021.10.6/東京都中央区の日本資産運用基盤グループオフィスにて
【日本橋兜町発】大原さんの経歴を拝見すると、申し分のない、いわゆるエリートの姿が浮かんでくる。どんな堅物が登場するかと思っていたら、ちょっと人懐っこい表情を見せ、私の若干しつこい問いかけに誠実に答えてくれる親しみやすい方だった。起業前後の話は本文に譲るが、その強い志と行動力は並のエリートとは明らかに異質のものだ。通天閣を真下から仰ぎ見る町で育ち、さまざまな人と行き交い、長じてはロンドンから遠い日本を眺めたことが、その原動力になっているのかもしれない。
(本紙主幹・奥田喜久男)
「いま、起業しなければダメ」と好待遇をあっさり手放す
大原さんは若くして「日本資産運用基盤」というちょっと硬い名前の会社を立ち上げられましたが、まず、この起業に至るまでの道程についてお話しいただけますか。
実は、私は国家公務員志望でした。それも防衛、外務、警察といった分野で、国や公共に奉仕したいと考えていました。わかりやすいですよね(笑)。父は大阪の下町で靴屋を営んでおり、母方の実家は不動産屋をやっていました。両親とも商売の家系のため、自分はあまりお金に関わらない仕事に就きたいと思っていたんです。
東大法学部のご出身ですから、本来はそちらがメインストリームですね。それで、またどうしてお金そのものに関わる金融の世界に?
うっかり大学に5年間通ってしまったことで、公務員試験にそれが影響するのではないかと思い、官僚になれなければ研究者になろうと民間のシンクタンクも受けていたんです。そこで狭き門だった野村総合研究所に入社し、金融分野の研究員になったことが、この世界との出会いですね。
でも、私は研究員に向いておらず、1年で辞めてしまいました。毎日、机上での研究を続けることに耐えられなかったからです。
なるほど、じっとデータを分析するより、人とコミュニケーションをとるほうが得意なタイプなのですね。
そうかもしれません。人と話したり、何か一緒にやったりすることは好きですね。野村総研での待遇はとてもよかったのですが、研究より現場でのビジネスをやりたいと考え、前職より小さな会社に転職し、東京で3年ほど仕事をした後、ロンドンに駐在して金融商品の開発業務などに携わりました。
ロンドンにはどのくらいいたのですか。
8年間です。こちらの待遇もよかったのですが、ある日、「いま、起業しなければダメだ」と思ってしまったんですね。それが2015年のことです。
どうしてそう思われたのですか。
当時、私は日系の金融機関に在籍していたわけですが、世界的に金融業界の姿が大きく変わっていく時代にあって、そこにとどまっていてはいけないと思ったからです。この会社も待遇がよく、駐在員手当も充分に出ていましたから、外から見れば辞める理由はなかったのですが、あっさり辞めてしまったというわけです。
そのとき、ご家族は?
当時、妻のお腹には子どもがいて、妻や義母からは、せめてこの子が無事に生まれて1歳になるまでは辞めないでくれと懇願されたのですが、辞めるのはいましかないと。その結果、妻はショックで早産してしまったんです。
ええっ、それはたいへん! 意志が強いというよりは、ずいぶんなわがままを通してしまったように感じられますね。反省してますか(笑)。
もちろん、反省しています。いまでも妻には、いつも「一生、反省していなさい」と言われますね(笑)。
ITの発達と業界規制の緩和で 日本の金融機関は激動の時代に
大原さんは、金融業界の変化を感じ取ったことをきっかけに起業を決意されたわけですが、具体的にはどのように変わってきたのでしょうか。
金融業界におけるビジネスとは、情報を取り扱って、その情報に値段を付けることといえます。そうしたビジネスゆえ、IT革命の影響を正面から受けてしまった業界なのだと思います。証券会社、運用会社、銀行など金融機関の情報は、ITの発達により限りなくタダに近づいていってしまうわけです。すると、私たちはどこに付加価値を見いだして、お客様から手数料をいただくことができるのかという問題に突き当たります。
この問題は20年ほど前から意識されてきたものですが、ここ数年、それがにわかに具体化し、業界は「ガラガラポン」の状況にあるといっていいでしょう。
そうした状況に至ったのは、なぜですか。
日本の金融業界をめぐる規制の緩和が、ITの進展に追いついてきたからです。例えば、かつて銀行といえば、駅前などに有人店舗を持つ伝統的な姿を思い浮かべるものでしたが、規制緩和によって非金融機関であっても銀行業を営めるようになりました。
そうか、コンビニのATM端末だけの銀行も銀行ですものね。
オンライン証券の登場も1999~2000年頃ですが、当時は既存の証券会社しかできなかったものが、いまは業界の垣根が取り払われています。だから、日本のメガバンクレベルの金融機関ももはや安穏としてはいられないと思いますね。
そうした業界の変化を感じ取れたのは、やはり国際金融の中心地であるロンドンで仕事をしたことが大きいのでしょうか。
私がロンドンに駐在していたのは27歳から35歳までの間ですが、その前に4年ほど東京で仕事をしていたとはいえ、ビジネスの考え方やつくり方のほとんどはこちらで学んだといえます。
そのなかで、日本の事業構造と徹底的に違うと思ったことは、英国の金融業界では外部のものを使いながらうまく組み立てるという発想が基にあるということでした。システム開発にたとえれば、英国の金融業界はIaaS、PaaS、SaaS的な世界であるのに対し、日本の金融業界はすべてオンプレミスの自前主義といえるでしょう。現在も、クラウドサービスを利用している邦銀はほとんどありません。
なるほど、そうしたことを通じて日本の金融業界への危機感を募らせたのですね。考えてみれば、かつて官僚志望で国のために働きたいと思った志と共通しているようにも思えます。
そうですね。当初の志からはずいぶん違う道を進んでいるように見えるかもしれませんが、自分のなかでは基本は変わっていないと思っているんです。
帰国後は、どのようなビジネス展開をされたのですか。
証券会社や資産運用会社などの出資を受けて、投資顧問会社を設立しました。ただ、この事業はうまく展開することができず、2年半ほどでその会社から離れ、しばらくはフリーランスで活動しました。でも、フリーランスでできることには限界があります。そこでまず、現在の日本資産運用基盤を自分ひとりで設立したわけです。
一度挫折して、再起を図られたのですね。現在のビジネスについては、後半でじっくりとうかがいます。(つづく)
司馬遼太郎『燃えよ剣』
大原さんは、司馬遼太郎作品の魅力について、登場人物に歴史上の役割を与え、無駄を嫌い、とことんシンプルで機能性や合理性を求める点にあると語る。ご自身も、これだけのために生きるというスタイルが好きだそうだ。以下は、ことあるごとに読み返すという『燃えよ剣』の一節。
「刀とは、工匠が、人を斬る目的のためにのみ作ったものだ。刀の性分、目的というのは、単純明快なものだ。兵書とおなじく、敵を破る、という思想だけのものである」
「はあ」
「しかし見ろ、この単純の美しさを。刀は、刀は美人よりうつくしい。美人は見ていても心はひきしまらぬが、刀のうつくしさは、粛然として男子の鉄腸をひきしめる。目的は単純であるべきである。思想は単純であるべきである。新選組は節義にのみ生きるべきである」
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。







