2021.12. 3/東京都千代田区のホテル龍名館お茶の水本店にて

【神田駿河台発】千代田区神田駿河台は、まさに文化の街だ。お隣の文京区本郷・湯島地区を含め、大学、病院、書店、スポーツショップ、老舗の喫茶店やカレー屋など、古くからの伝統と新しい息吹が共存する街にもかかわらず、静けさや落ち着きを感じさせる稀有なエリアといえる。湯島聖堂とニコライ堂の間に架かる聖橋から程近い龍名館の本店で、その歴史と文化、そしておもてなしの心について、社長の浜田敏男さんにじっくりとうかがった。

(本紙主幹・奥田喜久男)

銀行勤務から家業の旅館経営に転身

龍名館といえば東京の老舗旅館の一つに数えられていますが、もともとこの神田駿河台にあったのですか。

はい。私の曾祖父である濱田卯平衛が明治32年(1899年)に、この地で創業しました。

ということは、もう創業120年を超えておられるのですね。浜田さんご自身は四代目になるのですか。

兄の浜田章男(現会長)が四代目社長を務めました。私は次男ということもあり、最初は銀行に就職したんです。

なるほど。お兄さんの跡を継いだ形になったと。でも、どんな経緯で社長になられたのですか。

私は大学を卒業して、太陽神戸銀行(現三井住友銀行)に入行しました。営業成績もよく、預金も貸付も両方得意でしたね。ところが、入行10年目の昭和61年(1986年)に、突然兄から電話がかかってきました。「父が体調を崩したから、今すぐ戻って来い」と。

10年目といえば、銀行の仕事も充実していた頃でしょう。

そうですね。ただ「今すぐ」と言われても、そんなに簡単に辞められるわけではありません。でも仕方がないので「1か月先に辞めさせてください」と支店長に言うと「そんな急な話は聞いたことがない!」と、やはり激怒されました。

それでも、家業に戻らざるを得なかったと……。

もともと私は家業を継ぐつもりはなかったのですが、結果として戻ることになったということですね。当時、父(浜田隆氏)が三代目社長を務めており、兄は専務として経営に携わっていました。兄はホテルオークラで3年間修業した後に戻ってきており、銀行出身の私には経理・財務を担当するよう命じました。父も、お金のことは私に任せようと考えて、銀行に就職させたのだと思います。

10年近く銀行員として外で働いて、家に戻るというのはどんな気分でしたか。

やはり、家に帰るのはイヤでしたね。実は社長になるのもイヤだったんです。

えー!? それはどうしてですか。

兄が社長を務めているとき、私は副社長だったのですが、やはり責任という面では副社長のほうが楽です。だから、副社長のままでいいと正直に言うと「いつまで甘えているつもりだ!」と一喝されました(笑)。

日本画の大家が宿賃として作品を置いていった時代

老舗旅館というと、どこか文化的な匂いがするものですが、龍名館にはそうした事物や逸話がありますか。

かつては、川村曼舟先生、速水御舟先生、竹久夢二先生、伊東深水先生など、著名な日本画家にお泊りいただきました。その作品のいくつかは、当館に保存されています。

それはプレゼントされたということですか。

ご祝儀としていただいたこともありますが、宿賃代わりに置いていかれることが多かったようです。

なるほど、大家の作品なら高く売れますものね。でも、実際に売るわけにはいかないでしょう。

そうですね。いただいた作品はすべて掛軸にして、かつては客室にそのまま掛けていました。

お金を払わず自分の描いた絵で支払うということが実際にあったんですね。話として聞いたことはありますが、ちょっと驚きました。

それから文化・芸術といえば、幸田文先生の小説『流れる』の中に、龍名館の名前が登場するのです。

ほう、それはどんな場面ですか。

先輩芸者が後輩の芸者に対して、お金のない客についていかないよう説教する場面です。「そんな変な処からの電話じゃ辻占はよくないね。ちゃんとした帝国ホテルとか龍名館とかいうのなら又いいけれど……」というくだりですね。

龍名館に泊まっているほどの客なら、お金持ちだろうと……。ハイブロウなイメージが当時からあったのですね。しかし、帝国ホテルと並べられるというのも、すごい話です。

もちろん、帝国ホテルは明治政府の肝いりでつくられたホテルであり、龍名館は町場の一旅館にすぎません。実際のところ、当時の旅館の地位はとても低かったのです。そのため、祖父の濱田次郎は全国旅館組合を結成し、旅館業を社会的信用のある業種に育てようとしました。

お祖父さまは、業界全体の発展にも寄与されたのですね。ほかに、龍名館ならではといったサービスはありますか。

このお茶の水本店を含め、ハードウェアはホテル形式になっていますが、おもてなしとしては、かつての旅館の心でお客様に接するようにしています。チェックインの際には、おしぼりを出し、抹茶を点てて召し上がっていただくとか、お出かけの際は最後までお見送りするといった習慣はずっと続けています。

浜田さんご自身もお茶を?

私は裏千家の小習の免状を持っているだけですが、知り合いに正教授の方がいるので、希望する従業員向けに月に一回、お稽古を続けているんです。ここのところはコロナ禍で中断していますが、いずれ再開する予定です。

茶道の文化を、いつごろからおもてなしに取り入れられたのですか。

祖父の時代からですね。父がホテル八重洲龍名館(現ホテル龍名館東京)の建て替えをしたとき、きちんとした茶室をつくったのですが、いつしかそれが放置され、私が戻ったときには高価な茶道具もなくなっていました。適切な管理がなされていなかったのですね。これではいけないと思い、あらためてお茶の先生にお願いし、従業員へのお稽古を始めました。

そうした文化を根づかせ、続けていくにはお金もかかりますが、手間もかかりますね。

あるとき、お茶をやっていると言ったら、「ずいぶん余裕があるんですね」と言われたことがありました。そんな余裕があるわけではありませんが、会社の文化として細く長く続けていっていければと思っています。(つづく)

幸田文『流れる』(新潮文庫)

文庫の初版発行日が昭和32年12月25日という超ロングセラー。本文でもふれたが、本書には「ちゃんとした」宿として、龍名館の名前が出てくる。カバーの装画は、日本画家の橋本明治によるもの。現在流通している同書のデザインは別のものに変更されているため、そうした意味からもとても貴重な一冊といえる。

心に響く人生の匠たち

「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。