2022.4.25/東京都新宿区の東京理科大学にて
【東京・神楽坂発】向井さんが慶應病院で外科医を務めていたとき、ある受け持ちの患者から「カンフー姉ちゃん」と呼ばれたそうだ。その患者とは、かの石原裕次郎。向井さんの着ている白衣がカンフーの道着に似ていたことから、裕次郎だけでなく石原軍団の面々からもそういわれたという。「当時は元気いっぱいで、病棟の廊下をドタバタと忙しく歩いていたのでそういうイメージがあったのでしょうね」と向井さん。でも、いまも元気いっぱい。飾らない明るい語り口にパワーをたくさんいただいた。
(創刊編集長・奥田喜久男)
闘病中でも弱音を吐かない
スーパーヒーローの姿
外科医時代、石原裕次郎の担当医として手術にも立ち会われたということですが、そうしたスターが入院してきたときは、何か特別な扱いをするのですか。
いいえ、私は外科医ですから、いつもと同じ格好で、他の患者さんに対するのと同じように接します。「次の患者さんも待っているから、採血したらすぐ行きますよ」という感じでしたね。
彼はどんな人物だったのでしょうか。
石原さんはとても人懐っこい方で、魅力的でしたね。石原軍団のみなさんも人間の絆を大切にするすばらしい人たちでした。
プライベートでもかっこいいんだ。
石原さんが、麻酔からさめ、気管に入れた管を抜いた直後、「ずっと大海原を漂っている感じでした」と口にしたんです。さすが、ヨットマンだと思いましたね。
それはまた、かっこよすぎます。きっとその台詞はあらかじめ用意していたのではないでしょうか。
それはないと思います。ふつう、麻酔がさめて抜管するときは、咳き込んだりしてとても大変なんです。そんなときにそう話したのは、麻酔がかかったふわっとした意識のなかで、自然と海を連想したのだと思います。
それからすごいと思ったのは、重い病気になってつらいはずなのに、人前では決してつらそうなそぶりを一切見せなかったことです。検査などのため、車椅子で病室の外に出ることがあるのですが、その姿を見た他の患者さんが「裕ちゃん」と声をかけたりします。ふつうだったら放っておいてほしいところですが、きちんとした態度をとられていました。このとき私は、こういう人がスーパーヒーローなんだと思いましたね。
ところで、向井さんは当時もいまも元気いっぱいで、鬱々としたことなどないような感じがします。
落ち込むことはもちろんありますよ(笑)。でも、全体的に上がっているから、周囲からは落ち込んでいるように見えないのかもしれません。子どもの頃から明るく、人と話をするのが好きな性格でしたから。
それはご両親の影響でしょうか。
父はおとなしいタイプで人付き合いも得意ではありませんでしたが、母はいい意味でのおせっかいでした。近くに困っている人がいると家でつくったお味噌汁を持って行ったり、寒そうにしているお年寄りがいたら、履き古した靴下でも大事に洗濯して持って行ってあげたりしていました。そんな味噌汁の残りを持って行ったり、古い靴下をあげたりするのはどうかと思われるかもしれませんが、母は「とりあえず、いまをしのぐために使って」と。そういうことが自然にできる人だったんです。天真爛漫でちょっとがさつだったので、どちらかというと私は母に似たのだと思います。
「人を助けたい」と思う気持ちは、お母さんと共通していますものね。
宿直明けに読んだ新聞記事が
宇宙飛行士への道を開く
外科医として忙しくも充実した日々を送りつつも、向井さんは宇宙飛行士への転身を果たします。そこにはどんな決断があったのですか。
実は、医師を辞めて宇宙を選ぶという発想はありませんでした。もともと選ばれると思っていませんでしたから。医師を辞めなければならないと考えるのは、合格を確信している人だけです(笑)。
でも、ご自身の決断と努力で宇宙に行くことができたわけですよね。
もちろん努力も必要ですが、それができる「土壌」に乗ることができたからだと私は思っているんです。
「土壌」ですか。
医学部卒業後6年間経過し、チーフレジデント(専門研修医)を終えると、受け持ち患者を持たず学位論文のまとめに専念できる時期があります。ちょうどその時期(1983年秋)に、日本人宇宙飛行士第一期生の募集があったのです。
この募集のことは宿直明けにコーヒーを飲みながら読んだ朝刊の記事で知ったのですが、パイロットではなく宇宙利用のための技術者や研究者を募集していること、それから、これは後で気づいたことですが、男女雇用機会均等法施行前にもかかわらず性別を問わなかったことなどがとても先進的で、その切り抜きを2、3日お財布の中に入れていたくらいでした。
均等法の施行前ですか。
この募集は83年秋に行われ、均等法の施行が86年春ですから、当時の宇宙開発事業団としては「男性に限る」としても問題なかったわけです。でも、そうした制限がなかったことは、いま思えばとてもラッキーでした。
もっとも、それまで医師として病院に勤務しており、特に女性だからという意識は持っていませんでした。宿直や深夜勤務、休日の緊急呼び出しなど男性と同じようにこなしており、正直なところ、労働基準法で女性が「保護」されているということもよく理解していませんでした。医師や看護婦(当時の呼び方)は労基法下でも例外規定が適用され、男性と同様に仕事に従事することができたのです。
ということは、その新聞記事を目にしなかったら、宇宙飛行士になることはなかったと。
それもありますし、当時はNASAで行われる最終試験まで1年半ほどかかったため、まずこの募集が1年早くても1年遅れても、臨床医として受け持ちの患者さんがいるため応募することはなかったと思います。
そうした宇宙事業の進化やタイミング、そして運も、宇宙に行くための土壌だったということですね。
宇宙から自分の故郷である地球を見たいという気持ちはあったものの、私は天文少女でもありませんし、宇宙好きでもありません。だから、小さい頃からの夢は宇宙飛行士になることではありませんでした。もし合格してもNASAに2、3年留学し、その後医学の分野の戻ればいいかなと考えたのです。
なるほど。医学から離れるわけではないと。
でも、人生の選択はそんなに甘くないことを思い知らされます。私は85年10月に科学宇宙飛行士に選出されたのですが、その4カ月後にチャレンジャー号の爆発事故が起こってしまったのです。事業再開のめども立たず、自分がいつシャトルに乗れるのかわからない状況で、医学の世界に戻るかどうか悩んだこともありました。でも、せっかくやり始めたことだからと続けることにして、その9年後、ようやくコロンビア号に搭乗することができたのです。(つづく)
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。







