「浜」が「横」に・・・
さて、肝心の「横浜」という名前の由来だ。
先にも述べた通り、横浜は現在の横浜市の一部を表す名前で、最も海側の横浜村がその地域に当たる。周辺には、太田村や野毛村、石川中村などがあり、お察しの通り今でも市内に地名として残っているものがいくつもある。
これらの村が集まって、後に横浜市となっていくわけだが、名前のいわれは横浜村からということになる。
この横浜村があった辺りは半島状に突き出ていて「宗閑嶋(しゅうかんじま)」と呼ばれ、その地面は砂でできていた――すなわち、砂州だったのだ。この宗閑嶋は「洲干嶋」と書くこともあり、こちらは読んで字のごとくカッサカサな土地柄を表現している。
そして、地図を見れば分かるように、この「浜」が陸地から野毛方面に向かって、まるで入海にフタをするように「横」に突き出している。「横」向きに伸びた「浜」・・・。
そう、これがズバリ「横浜」が「横浜」と名付けられた理由である。
つまり、この地域に名前が付けられた当時の地形が元になって、こんな名前が付けられたというわけだ。
もし、宗閑嶋が山がちだったら「横山」だっただろうし、クネクネしていたら「曲浜」だったのかもしれない。たまたま横に向かって浜が伸びていたから「横浜」なのである。
今とは大違い? 当時の横浜とは
さて、名前がついた経緯は分かったが、せっかくなので、昔の横浜村がどんなところだったのか少し探ってみよう。
横浜は海のイメージが強いが、住んでいる人はご存知の通り山も多い。この時代もそれは同じで、海の近くまで山が迫っており、今の関内エリアはほとんど海だったわけだから平地は少なく、東海道からも離れている孤立した寒村地帯だった。
住んでいるのは半農半漁の貧しい人ばかり。ところが、半農とは言っても先述の通り横浜村のある宗閑嶋は砂地なので水田が作れない。だから、あったのは陸田(畑)だろうと考えられる。畑でも満足な野菜が取れればいいが、平地が少ない上に灌漑(かんがい)整備も発達しておらず生産力も低い。端的に言うと、ニッチもサッチもいかない。
後にペリーと一緒に村を訪れた宣教師のウィリアムズさんは、自身の日記で「あまり繁栄しているようには見えない。悪臭が漂っている」とジャーナリスティックに「ショボイ村」であることを記しているくらいだ。
( Photo by (c)Tomo.Yun )
そんな箸にも棒にも掛からないような横浜村だが、幸いにも海に囲まれていた。陸がダメなら船を出せ、とばかりに漁業や塩づくりに精を出す。
『横浜いま/むかし(横浜市立大学刊)』によると、海の幸の中でもナマコが重要な財源であったというのだ。
『江戸名所図会』長谷川雪旦挿絵「杉田村海鼠製」
(横浜市発行「市民グラフヨコハマ」・101,1997,43頁より)
幕府は対中貿易の輸出品として、中華料理には欠かせないナマコを取り扱っていた。
特に1800年代初期には、お上から「どんどんナマコを取ってこい」とのお達しがあり、ナマコ狩りは顕著に。
村民はナマコを取って、煮て、乾かし、干しナマコとして江戸に送った。
それを江戸の商人が貿易の窓口である長崎まで運び、そこから中国に渡り、彼らの食卓に並んだのである。
名前の由来と歴史の面白さ
開港後の横浜は、時代の移り変わりを象徴する街として歴史の教科書にも登場する。
しかし、開港の際に一気にスターダムに押しあがったような都市だから、それ以前の様子は一般にはあまり知られていない。
だから、その名前の由来もポピュラーではないし、その大元になった関内辺りが海だったという地形も知られていない。
この話は歴史の面白さを端的に表しているように思う。
横浜の由来となった地形は、もはや決して見られないわけだし、想像することすら難しい。古くから伝えられてきた史料があったからこそ、このエピソードに驚くことができるし、「はぁ~、なるほどねぇ」と感心することもできるのだ。
名前の出所は、知ってしまえばシンプルなものだった。
それでも、その過程では驚くことも少なくなかったし、新しい「なぜ?」に出会える。これを機会に、自分が住んだり働いたり遊んでいる横浜のことを探ってみてはどうだろうか。
横浜は、大火事や空襲の影響で史料が比較的少なく、分からない部分が多いそうだ。上手くいけば、教科書をひっくり返すような大発見ができるかも。
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