2022.6.29/東京都千代田区のイトーヨーカ堂本社にて

【東京・二番町発】イトーヨーカ堂では、2年半前にコロナ感染が拡大し始めてから、毎朝「新型コロナ対策会議」をずっと続けているのだそうだ。回数にして540回を超えた。議題はコロナに限らず、日々世の中で起きている出来事に自分たちはどう対応すべきかという内容となっており、マーケットの動きやお客様の声などを含め多岐にわたる。会議にはリモートを含め80名が参加し、その議事録は各店舗に送られ、情報共有される。三枝さんは、このように各人が自ら考える習慣を身につけることが、企業風土の変革につながると確信しておられる。

(創刊編集長・奥田喜久男)

自分が変わらなければ

物事が進まないことを悟る

三枝さんのお話をうかがっていると、何か熱さというか情熱のようなものが伝わってきますが、どんな少年時代を過ごされたのですか。

わんぱく坊主でしたね。一つのことをとことんやろうという気持ちや負けん気は強かったように思いますが、勉強はそれほど好きではなく、とにかく動き回っている子どもだったようです。きっと縛られることが嫌いだったのでしょうね。

父は山梨の農家に生まれましたが、私と違って物理や数学が得意で、勉強ができたのに経済的な理由で進学できませんでした。結局、食えなかったので横須賀の海軍少年工科学校に入り、海軍で30年、職業軍人として生きたのですが、終戦後は神奈川県の開拓団に入って昼は農業に従事し、夜は米軍厚木基地で警備の仕事をして、私たちを育ててくれました。

神奈川にも開拓団があったとは意外ですね。

満州の開拓団と同じように、戦後、相模原などの県央部で開墾作業をしていたということです。でも、私は近くにできた団地の子どもたちがうらやましかったですね。自分の親は朝早くから畑で真っ黒になって汗を流して農作業をしているのに、団地の子の親はスーツを着て出勤していく。当時はそれが格好悪いと思い、妙な劣等感を持っていました。

なるほど、それも時代の転換期にありがちなことなのかもしれませんね。

ところで三枝さんは、中国で日本の流儀を押し付けることが誤りであることに気づき、人づくり、組織づくりに力を入れられたということですが、このときはどんな心境だったのでしょうか。

当初は上から目線のトップダウンで物事を進めていきたかったわけですが、それが間違いだったと思い知らされ、中国人の気持ちを考え、自分が変わらなければならないと思いました。これも当時の上司である塙昭彦さんにいわれたことですが、「まず中国に染まれ。そして、離れろ」と。つまり、まずは「郷に入ったら郷に従え」ということが大事であり「自分がそうされたらどう思うのか」考えなさいと。いま思えば、中国に行ったことが、自分が変わる転換点になったと思います。

中国での20年の経験を買われて、2017年の帰国後、すぐに社長に就任されたわけですが、どんなことを期待されたとお考えですか。

少なくとも求められたことは、尖った事業戦略ではないことは確かだと思いました。お話ししてきたように、私が中国でやってきたのは人づくりや組織づくり、そして企業づくりですから、いますぐ使える戦略を期待されたわけでなく、その部分を生かした貢献が求められていたのでしょう。

企業風土の変革があってこそ

成長戦略を描くことができる

社長就任直後のビジネス誌のインタビューで、三枝さんは「私は伊藤派でも鈴木派でも何でもありません。……私は『イトーヨーカ堂派』なんです」と答えられています。前年にセブン&アイHDの鈴木敏文会長が突如退任し、いささか社業が不安定な状況に陥ったタイミングでの発言ですが、20年ぶりに見た日本のイトーヨーカ堂の姿はどのように映りましたか。

業績が悪くなったことは数字を見ればすぐに把握できるわけですが、その理由を探ってみると社員の考え方が受け身になっていることに気づきました。強烈なトップダウンによる経営が20年以上続いたため、社員が自分の頭で考え、物事を前向きにジャッジし行動することができなくなっていたわけです。

それまで行われてきたトップダウン経営のすべてを否定するわけではありませんが、上からいわれたことしかやらず、お客様のためでなく自身の損得や保身のために仕事をするといった状況をまず変えなければならないと考えました。

中国で経験されたこととよく似ているように感じます。

そうですね。伊藤雅俊名誉会長は「常にお客様のことを考えろ。お客様あってのわれわれだ」といいますが、中国でのビジネスでも日本での事業の立て直しでも、そうしたイトーヨーカ堂の原点に立ち返ることが不可欠だったわけです。ですから成長戦略ではなく、まず企業文化、企業風土を変えることが急務でした。それができなければ、どんなすばらしい戦略を立てたとしてもおそらく定着せず、機能しないと思います。

まさに「イトーヨーカ堂派」ですね。中国にいた三枝さんに白羽の矢が立った理由がわかる気がします。

ところで、そうした企業風土を変革するためにはどれくらいの年月がかかるものなのでしょうか。

20数年余り、トップダウンの状況と風土があったので10年から20年はかかると思いますが、5年から10年で変わっていかなければならないと考えます。

2017年に社長に就任され、今年会長になられたわけですが、その社長在任の5年間で変革は成し遂げられたと思われますか。

まだまだその途上だと思います。ただ徐々に土壌が変わり、変革の芽はたくさん出てきています。たとえばこの5年間で80店ほどで店舗構造改革を行ってきましたが、その中で社員たちが自分で考えて、自発的にさまざまな意見を出し、実践するようになってきました。

社員の方々も前を向くようになってきたと。

そうですね。そうした前向きな切磋琢磨ができるようになってきたので、もう次の世代に任せたほうがいいと思いました。なるべく早く次につなぐのが、私の役割だと思ってきましたから。

ところで三枝さんは、売上規模と企業価値の関係については、どのように捉えておられますか。

売上規模はお客様からの支持、評価の現れですから、社会的価値につながるものだと思います。ただ、売上高が大きい会社が強い会社かというと必ずしもそうではなく、しっかりと利益を出し、それを次への投資に振り向けられる会社のほうが健全といえるでしょう。当然、グループ内の事業会社が利益を出せないと、その存在価値や意義を問われることにもつながります。

グループ内には、巨大なセブン‐イレブンが存在していますが……。

規模ではまったくかないませんが、昨年に創業100年を迎えたイトーヨーカ堂が、どうして今日までやってこられたのかというグループの歴史に目を向ける必要はあると思います。その100年の間、ずっと右肩上がりで成長してきたわけでなく、当然浮き沈みがあったはずです。それでも残ってきたということは、創業の精神を忘れず、お客様やその他のステークホルダーに対して誠実な商売を地道に続けてきたからだと思うのです。

企業の価値は、規模や利益だけでは測れないということですね。

イトーヨーカ堂は、グループ内企業の軸となる経営理念をつくってきたと私は思っています。アナリストや投資家はややもすると短期的な利益を求め、またそれにより企業を評価しますが、もっと長いスパンでさまざまな角度から見ることも必要ではないでしょうか。もっとも「そんなわけのわからないことをいっていないで、黙って利益を出せ」といわれる方もまた多いのですが(笑)。

多くのステークホルダーの中で大切なのは、まずお客様、そして会社をつくる従業員の順であると考えています。

人を育てるためにも、軸となる企業としての姿勢を忘れてはならないと。本日はとても熱いお話を聞かせていただきました。これからのご活躍も期待しております。

こぼれ話

中国の西方に、パンダの故郷で有名な成都がある。『三国志演義』の舞台でも名前が知れ渡っている都市だ。この地を訪ねれば、怖いもの見たさに、燃えるようにから~い火鍋を食べる旅人は多いはず。成都は四川省の省都。その地にイトーヨーカ堂ができたのは1996年。四半世紀前の中国だ。当時は現在のような近代都市化する前夜で、中国風味が味覚も町並みもあらゆる生活環境に充満していて、郷愁を誘う様相であった。三枝富博さんはそうした環境の中で新規事業を立ち上げるメンバーの一人だった。当時47歳。私が最初に三枝さんをお見かけしたのは、もう10年ほど前になる。中国で成功している「流通業を巡る勉強会」のツアーだ。

邱永漢さんをご存じですか。作家の顔をもつ、経済評論家だ。株や投資の神様的な存在でもあった。台湾の生まれだから中国は苦もなく歩ける。経済発展の前夜だから、中国への精力的な投資家でもあった。私が邱さんを知ったのは作家としての邱永漢が最初だった。『密入国者の手記』、直木賞を受賞した『濁水渓』を読みながら、実に興味深い人だ、と思った。流通業を巡る勉強会はその邱さんが旗持ち役であることを知って、すぐに申し込んだ。北京、長沙、成都、上海を巡るツアーだった。邱さんは、成都のイトーヨーカ堂の入り口でツアーメンバーに向かって「この店は中国で最も成功した流通業です」と説明した。その言葉は心に残った。一歩入ると、そこはいつも見るスーパーの風景だ。雑然とした人混みの中に三枝さんがいた。背中を丸めながら、ニコニコ顔で接客している。「へぇ~、この人が中国でスーパーを立ち上げて、頂点に立った人なんだ」。いつか会って話してみたいと思った。

その願いがやっと叶った。「成都でお顔を拝見しました」「そうでしたか」。本社の会長室でお会いした。と言っても3カ月前までは社長の職にあった。話を進めると、社長当時の人物風景が伝わってくる。まるで信念の塊(かたまり)だ。もちろん経営者は、どこまでしゃべるか、の多寡はあるが、まずは信念の塊だ。そのことを承知の上で、三枝さんは“信念”という刀を自ら鍛錬した生身の姿をした人だ――と思った。刀を鍛える小槌はお客であったのか、上司か、同僚か、部下か、書籍か。いずれであっても最終的に小槌を自らに振り落とすのは、自分自身だ。それとも、異国の環境にあったことが幸いしたのか。

企業には風土がある。玄関のドアを押し開いた瞬間にその空気は伝わってくる。受付から経営トップの執務室に至るまでには職場の脇を通過する。この間の緊張感は“凛”と伝わってくる。イトーヨーカ堂の店内にも同質の空気感はあるが、質量が大きく異なる。少し狭い通路を歩いて会長室に着いた。私は二度目の対面だ。以前は店内で接客する三枝さんだったが、今回は頂上に立つ人の素顔を見ることができた。成都の時と同じような笑顔で接していただいているのだが、話の内容が事業に関することに及ぶと、緊張感が漂う。三枝さんの頭の中には大宇宙が回っていて、その空間を遊泳しながら、回答が飛び出すと言った様子だ。その言葉は、信念に裏打ちされているから、 柔(やわ)ではない。現在、コロナ禍での経営局面にあって「毎朝、すべての店舗と密に情報共有しています」。毎日ですか? とお気楽な質問をしてしまった。思わず失敗した、と思った。瞬間、刀鍛冶の小槌で打たれた気分に襲われた。この痛みが信念を鍛えるのだと確信した。「これがイトーヨーカ堂の空気感」なのだ。つい、背筋が伸びてしまった。

心に響く人生の匠たち

「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。